『ヒミズ』映画化に際して

こちらのブログ(http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120122)に感想を書いたので、転載しておきます。

◇木曜日は映画版『ヒミズ』を観てきた。今回の映画化によって気がついたのだけれども、『ヒミズ』という作品は、今後も様々な人によって再解釈されていくのも面白いかもしれない。多義的な解釈を可能にする原作について、あるひとつの方向を持った物語として読み替えたのが、園子温版『ヒミズ』だった。

 それはさておき、とりあえず園版『ヒミズ』を一本の独立した映画として観ると、水にまつわるお話ということになる。主人公の少年は川辺に暮らして貸しボート屋を営み、その敷地内にブルーシートを張って生活しているのは、2011年の震災によって津波被害を受けた人々である。物語の重要なシーンでは、人物が雨に濡れ川に落ち泥にまみれるなど、とにかく執拗に水浸しの人々の映る映画となっている。
 主人公スミダは一生普通に暮らすことを願う中学生なのだが、その理由は不条理を感じずには居られない家庭環境にある。たまに顔を見せては金を無心して暴力を振るう父親と、男にだらしない母親。スミダがこの環境を「ありきたりの不幸話」と片付け、普通であることに執着するのは、その状況に甘んじて自堕落な生活を送ること、及びそんな両親への嫌悪だろう。
 また、彼は普通でありたいという願望とともに、もうひとつ重要な願いを口にしている。「誰からもジャマされず…」。彼は自らの人生について、常に誰かから暴力的に脅かされるように感じており、自分のあるべき普通の人生を他人に破壊されているのだと考える。ともすれば弱音を吐いてしまいかねない感情を抑え込めるように、意固地に「ありきたりの不幸話」と言い切るが、その裏側にはこの環境への激しい憎悪が浮かぶ。「たまたまクズの両親の元に生まれただけだ。俺は立派な大人になる」。だが、自分の人生をめちゃくちゃにする暴力に対し、衝動的反射的に、そして象徴的に抵抗を試みた結果、スミダは父親を死に至らしめてしまう。
 彼の人生を暴力的に歪める両親さえいなければ、彼の人生は彼のものとなるのだろうか。しかし彼は、自分の人生のために父親の人生を奪ってもいる。暴力による干渉はスミダの最も嫌悪するところであるが、だが他でもない自分こそが、その最大の干渉を働く張本人なのである。そのことに充分自覚的なスミダは、自分の人生を自分のものとする夢を諦め、社会のために、それも最大の干渉を働いた者らしく、卑しく使うことを決意する。一年以内に悪いヤツを見つけ、一人殺す――。「オマケ人生」の始まりである。
 さて、映画はこのあらすじに震災の影を忍ばせようとしている。明らかに整合性を欠いた部分も多いが、しかしその試みは一定以上の成功を収めていると思う。暴力的な干渉を常に孕み続ける運命に対して、どのように対峙するか。それを模索するスミダに、震災という圧倒的な不条理に臨む態度をなぞらえることもできるだろう。その意味で、古谷実の『ヒミズ』は良い素材であることは間違いない。
 ネタバレしない範囲で言う。まずこの作品は、詩の朗読によって幕を開ける。ググってみると、どうやらヴィヨン『軽口のバラード』というものらしいのだけれど、とにかくこの詩はひたすら、わかるものとわからないものの区別を宣言していく。そのときスクリーンに映るのは、津波によって積み上げられたがれきの山。がれきのひとつひとつをよく見れば、確かにそれが倒壊した家屋の一部であったり、家電や自転車であったりと見分けることはできるのだけれども、しかし同時に沸き起こるのは、それが分かったところでどうだというのか、という気持ち。「何だってわかる、自分のこと以外なら」。スミダがこめかみにあてた拳銃の引き金を引くところで、その映像はぷつんと途切れる。
 これが本作の幕開けである。だが、この作品はそうした無力感から出発するとともに、反対側の極に、二階堂ふみ演じるチャザワというヒロインを置く。彼女は溌剌というよりも、もうほとんど異常とさえ言える好意をむき出しにしてスミダにつきまとい、希望ある方向へと導こうとする。スミダの物語を、チャザワがひっくり返そうとする図式を保ちながら、この物語は進んでいく。
 チャザワの好意は、当然スミダにとっては干渉である。だから彼女との接触には常に暴力が伴うことになるのだけれど、実はそのとき、用意されているアイテムがもうひとつある。それが水なのである。自と他の境目を曖昧にする水が、自と他を分割する暴力とともに描かれるとき、チャザワとスミダの間には性的な関係が結ばれる(最初に川辺で殴り合ったあと、びしょぬれのチャザワとスミダの間には、なんと虹が引かれている)。この水の暴力とは、言うまでもなくスクリーンの外に記憶される津波にもなぞらえられ、全く唐突に遭遇してしまう水の暴力とともに、スミダとチャザワはある方向に向かって突き進まざるを得なくなる。つまり――あまり野暮なことは言わないようにしたいので歯切れの悪い言い方になるけれど――セックスの先にあるものを、津波の先に見ようとする決意を感じられるラストシーンだった、ということだけ言っておく。チャザワがしまい込む「呪いの石」とは、怨念の託された水辺の石であり、つまりはこれからの子供のことなのだろう。

迷惑をかけずに生きようなんて傲慢。生きるってことは、迷惑をかけるってことですから。
松江哲明童貞。をプロデュース』より、カンパニー松尾の台詞)

◇ところで、好き嫌いを超えたところで語られる映画であることは間違いないが、とはいえ原作の解釈というレベルにおいては、園子温監督の読みはいささか単純明快な方向に引っ張り過ぎたようにも思う。以下に書き連ねることは、映画作品への評価ではない。そこから見える原作読解への評価である。
 古谷版との比較において、最も違うのは父親を殺すシーンだろう。園版においては、父親による具体的な暴力によって干渉の暴力性を描くが、古谷版においてそれはない。明らかにダメっぽい父親の姿は描かれるが、住田に暴力を振るっていたかどうかはわからない。というよりも、殺害シーンにおいては、住田の方から一方的に父親に向かってコンクリブロックが振り下ろされるのである。不慮の事故という形式を取る園版スミダは、古谷版住田とは別人物である。
 園版『ヒミズ』は、そこに主人公の迷いを挟むことによって、父親が居なくなったところで自分の人生が自分のものになるのではない、ということがあらかじめ見え隠れしている。震災後の日本の話としてアップデートする*1、という園監督の主張は、まさにこの部分に顕われているのだろう。これは、不安の立像たる「バケモノ」の扱いにも繋がって来る。園版において、「バケモノ」はただ単純にスミダに殺人を促す具体的人物としてしか顕われない。古谷版の「バケモノ」が、善悪の彼岸から運命を告げる不条理であったのとは大分異なり、むしろそのような存在を園版に見つけることはできないのである。これはつまり、住田よりも幾分周りの見えているスミダには、しかしその分、「バケモノ」との切実な対話をする権利を持たないことを意味する。簡単に言ってしまえば、その後の「悪いヤツを殺す」という理屈を持ち出すには、この状況は大分弱く、どう考えても警察に自首する方が賢く思われてしまう。
 なぜ古谷版住田が、あれほどまでに警察への自首を拒んだのか。単純化して言うならば、そのような道徳的な意味での罪を感じていないからである。住田の倫理においては、それは正当化されるべき行為であった。自分の人生を暴力的に歪める存在への、唯一の抵抗である。だが皮肉なことに、自分の人生をあるべき普通の形に戻し、自分のものとして宣言する行為は、クズを殺すということになってしまう。この状況に整理を付けるために設けられた、一年間の猶予つきオマケ人生とは、広く社会のために生きるという形式を取りながら、実は自分のために生きる手段を探るどうにかして見つけ出したい期間でもある。
 バケモノの言う「決まってるんだ」とは、住田が普通であるか否かを宣告するのではなく、ただ、最初から最後まで自分の人生は自分のものと「決まってる」ということである。あるべき普通の人生が、誰かの暴力によって歪められるのではなく、始めからそういった暴力ありきで運命は決まっている。古谷実ヒミズ』のラストが、一面ではどうしようもない感情を呼び起こすとともに、しかし同時にある種の清々しさをたたえているのは、このバケモノの囁きに希望を託すことも可能だからである。それは次作『シガテラ』において、「不幸になるまでがんばる」という台詞に明言される決意である。不幸になることがあらかじめ決まっていようとも、それをも織り込んだうえで、「がんばる」。無力感に陥るよりも先に、常に既に動かざるを得ないこの「しょうがなさ」は、どこまでもポジティヴなものではないだろうか。

日常が終わると思ってしまった方へ

 どうしても今回の一件にあたって、やはり僕は古谷実抜きで考えることはできません。よって、超ひさびさにこちらのブログを更新します。
 今回の一件というのは、いうまでもなく2011年3月11日に起きた大地震・大津波、そしてそれによって起きた福島原発事故、及びそれらに対する様々な反応のことです。
 このエントリを書いている現在、災害における死者行方不明者数は増加の一途を辿り、福島原発の危機は落ち着かず、数多くの方が危険な避難所生活を強いられているという状況です。東京から西の方に避難する方も少なからず居るそうで、それがけして大袈裟ではない、むしろひとつの賢明な態度のひとつであるとさえ思える状態です。かくいう僕の父方の親戚も、多くが宮城在住であり、13日頃にとりあえずの安否確認はできたものの、上記の問題を抱えている関係上、まだまだどうなるかわかりません。
 連日の報道やネット上の反応などを見るに、これが未曾有の大災害であるという認識が共有されており、それは全くその通りだと思います。しかし、それは言うまでもなく災害の規模の話であり、災害の規模が未曾有だからといって、不安の大きさも未曾有であるかといえば、それは全く別ものであるように思っています。
 今回の死者行方不明者数が、随時更新され増えていきます。恥ずかしく、そして本当に馬鹿でくだらない話ですが、阪神淡路大震災のとき、僕はこの様子を数字としてしか捉えられませんでした。小学4年生であったにも関わらず、いやそういう年齢の話云々以前に、本質的に幼くガキな感受性の持ち主でした。当たり前のことですが、これは悲しみを表す数値ではなく、不幸が何人の上に訪れたか、ということしか言えないものです。そして、震災によって不幸に陥ることも、交通事故や病気によって不幸に陥ることも、人為的か否かの違いこそあれ、計量不可能な悲しみという意味においては同じものです。
 何が言いたいのかというと、日常というものの話です。
 この3月11日以降、私達が当たり前のように享受してきた日常というものが、突如として足下から崩れ去る様子をまざまざと見せつけられているように感じる人は居るでしょう。一見、それは事実のように見えます。しかしこういうとき、私達にとって日常のリアリティとはなんだったかを思い出すと、それはそんな単純なことではなかったような気がしてきます。日常というのは、そもそもからして「突如として足下から崩れ去る」という前提の上に成り立っているものではなかったでしょうか。
 日常というものが空から勝手に降ってくるものであり、それをただ享受するだけだと思っていた人は、1995年、阪神淡路大震災において圧倒的な暴力を目の当たりにし、その熱にほだされ、なんと自ら暴力を奮ってしまった。これは、どこまでものんびりと阿呆のように口を開けた思考回路だと言わざるを得ません。いつ訪れるともしれない不幸の上でギリギリ立っている日常に、地震の後でさえ気付けない。むしろ地震が日常を破壊する様を見て、はしたなく興奮しているだけ。彼らにとってそれまでの日常とは、それだけ自分と無関係で、強固で頑丈でびくともしないように思えていたのでしょう。そして彼らは日常を破壊することを夢見てしまった。しかし当たり前のことですが、それは全くすごいことではない。元々日常というのがぐらぐらしたものである以上、それをぽんと押して倒してしまうことなど、誰にでも簡単にできる。オウム真理教という集団が情けなくなる程しょぼかったことが思い出されます。
 しかし、これは単に1995年が浮かれた時代であった、という話にとどまりません。今回の地震を戦争の比喩で語る人のどの程度がそうかはわかりませんが、戦争と地震を違和感なく直結させてしまうところに、僕は短絡的で稚拙な暴力の連鎖を感じずにはいられません。
 いま、僕はここで、古谷実シガテラ』を読み返します。あそこで描かれていたことは一体なんだったのか。主人公荻野にとって、日常というものはどのように発見され、紡がれていくものになったのか。
 荻野は作品終盤、自分が不幸の元凶であると思いこみ、恋人である南雲さんを喪う可能性に怯えます。しかしそれでも、一瞬後には恐ろしい不幸が待ち受けている可能性も込みで、それでも不安を内包したまま生きることを決意します。それはなぜでしょうか。

死ぬほど好きな人を・・・・・・・・幸せにできるかどうか?
(中略)
わかった!!!答えは「不幸になるまで がんばる」!!! だ!!!
そりゃそうさ!!がんばるさ!!だって死んでしまうからね!!!
OK南雲さん!!不幸が訪れる寸前まで僕は!!
君を超幸せにするぜえええええええ!!!
             〜古谷実シガテラ』6巻〜
http://d.hatena.ne.jp/akiraah/20070112

 荻野の答えは、「今が不幸ではないから」という至極シンプルな、そして明晰なものです。これをもう少し細かく見ると、不幸や幸福それ自体よりも「がんばる」ということの強さに気付くことができます。それは「不幸になるまで」という部分をも乗り越えてしまう力強さを持っています。
 『シガテラ』の最終話に描かれた、荻野と南雲さんのその後を思い出してみます。そこでは荻野の上には、まさしく「不幸」が訪れています。しかしそれでも荻野は死ぬことなく、それどころか幸福とさえ思える日常を獲得している。どうしてこんなことができるのか。それは、不幸や幸福と、絶望や希望を、それぞれ別々のものとして切り離すことができているからではないでしょうか。
 不幸や幸福というのは、そのときの状態しか表すことができません。そして「がんばる」「がんばら(れ)ない」というのは希望と絶望、つまり姿勢の話です。状態と姿勢の間には相関関係を結ぶこともできますが、それゆえに、それらは独立した概念だということができるでしょう。つまり、「不幸になるまで がんばる」という宣言の裏では、不幸や幸福と、絶望や希望の、切り離しが行われている。だから、実際に「不幸」が訪れても、荻野は絶望に陥ることはなかった。
 「がんばる」という運動は、生きている以上絶えず行われる運動です。がんばらないと、死んでしまう。それは、生命がなくなるという意味だけにとどまらず、無力感に陥って、動けなくなってしまうということをも指します。私達はここで、無力感に陥るよりも先に、既に、常に、動いている自分に気付くはずです。脈や鼓動のリズムによって、日常というものが生まれ落ちて来たという、ごくごく当たり前の事実を、今こそ思い出すべきです。
 日常というのは、誰かから勝手に与えられ、消費されるものではありません。不幸や幸福と隣り合わせのところで、しかしそれでも尚、私達が望み、この手で育てるものです。そしてその行為は、生きている以上終わることがありません。日常が終わらないことに、いやそもそも、何も終わらないことに、私達はポジティヴであらざるを得ないのではないか。シガテラを読んで以来ずっと、僕はそう感じているのだと思います。


絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
家族は昨日西に逃がした
いちこの故郷東広島
子供だけでも生き延びられるよう
放射能自分に今可能
な 手だて これくらい そして
仕事あるから自分だけ今日
新幹線乗って戻る東京
家族とはなれまるで出稼ぎ
エクソダスしたくてもダメ出す
家庭の事情家計簿参照
募金一円もまだしてない
帰ってきたら昨日より暗い
地下鉄構内いつも通るだけど
壊れちゃいないもとあった風景
家もまだあるとりあえずOK
FUCKまだ余震びびる落ち着け
SUCKまたよぎる最悪のシナリオ
まさかくたばる冗談じゃないよ
思い残すことあり過ぎーる
エクソダス願いここにいる
電気つくうちにかたずける
アップするまで止まんなよ
ポッケのロック握りしめ
一体今日で何日目
絶対作るぞ三人目
絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
ECD『exodus11』〜

新連載『ヒメアノ〜ル』第一話 これまでの流れからちょっと予測

 とにかく様子見なことは確か。てか、今回は「主人公を全肯定する女の子が出てこない説」に一票。
 これまでの古谷実作品をががが〜っとおさらいしちゃうと、まず大前提として「何を信じればいいかわかりません」みたいな状況があったと。
 デビュー作『行け!稲中卓球部』においては、そういう状況下で身体を信じた少年達が出てくる。理性で処理しきれない問題を抱えて痙攣している=爆笑している身体を信じ、全てを笑ってみせるという感覚をもって生きていこうとしていた。
 他の先鋭的なギャグマンガがそうであるように、『稲中』もまた連載が続くなか、昨日と同じネタは使えないという理由から先細っていき、やがては主人公前野や井沢に隠された切実な悩み=ある種の誠実さが顕わになってくる。それはつまり、受動的な・天然モノの「絶対」という存在が消失する「思春期の終わり」でもあった。
 その「思春期の終わり」の瞬間を描いた作品が『僕といっしょ』であり、「思春期の終わり」以後の作品として、それでも「絶対」を求める『ヒミズ』と『シガテラ』がある。『僕といっしょ』において、完全に思春期的な・受動的な・天然モノの「絶対」を消失した後、『ヒミズ』と『シガテラ』では、どのようにして「絶対」を能動的に・人工的に設定するか、ということが主題となっていた。
 さて、ここで「思春期の終わり」をとっくに通り越した、あるいは無縁であった登場人物の流れを考える必要がある。『グリーンヒル』のリーダー、『わにとかげぎす』の富岡君のこと。
 〜〜〜〜〜(中略)考え中〜〜〜〜〜〜
 新連載である『ヒメアノ〜ル』は、“緩る緩る”がキーワード。てか、古谷実がついに「まったり」に挑戦する、と思えなくもない。『僕の小規模な生活』や『アフロ田中』みたいに「絶対」をもとめることを諦めた「まったり」になるのか、それともまた別種のまったりになるのかはちょっとまだわからない。

ホントにメモ書き

 1.93年当時のギャグマンガ状況(吉田戦車以降「非・常識」ナンセンスギャグの台頭 参考:『爆心地の芸術』)
 2.交換不可能な自分への徹底的な懐疑(交換可能な自分に絶望することのおこがましさ 参考:『完全自殺マニュアル』)
 3.『稲中』がギャグという体裁を取ったワケ(アンチ「かけがえのない自分」=嘲笑)
 4.ギャグマンガ(=笑わせるためのマンガ)を終え、『僕といっしょ』というストーリー物へ(笑えるけれども、笑わせるためのマンガではなくなる)(『稲中』のハイテンションに支えられたギャグが臨界点に達したとき、ギャグによって覆い隠そうとしていた部分=孤独の疎外感が露わになる)
 5.『僕といっしょ』で提示された問題意識(孤独の疎外感/全能感 圧倒的な世界に対して非力な自分 「交換可能な自分」という方便を使って逃げ場を用意している→ここではないどこかを求める)
 6.『グリーンヒル』の「もうしょうがない」(思春期を越えた中年の孤独は疎外感しか残らない。ここではないどこかはない)
 7.世界と一体化することで全能であろうとする『ヒミズ』(ギャグで疎外感をかき消すのではなく、むしろ引き受ける代わりに、全能感を加速させることでつりあいを持たせる。いわばもうひとつの『稲中』。)
 8.孤独であることの疎外感と全能感を同時に捨てる『シガテラ
 9.古谷実の想像力(求道者ゆえのもの。『僕といっしょ』以降のストーリーモノと無関係でない)
ギャグマンガとして優れている『稲中』(画力と空気感・・・変なモノの描き方)
言葉のセンス(ありふれた言葉からありきたりでない意味を紡ぐ→日常に潜む異様なモノ→『ヒミズ』のバケモノ・・・参考:諸星大二郎『不安の立像』)
切羽詰った人間=痙攣(先回りし損ねた部分→本音)・・・「爆笑」という身体反応を感覚的によく知っている。
真っ向から爆笑に挑むギャグマンガ作家としての姿勢が、切羽詰る身体を作り出し、「真剣さ」を演出する。『僕といっしょ』のラストの大泣きシーン。
<切羽詰ることを知る作家>
◇爆笑っていうのはつまり身体的な痙攣反応なわけで、何事にもアンチを唱える『稲中』は、爆笑のみを信じてやってきたといえる。痙攣している身体を感じることで実存としての自分を確かめていたのだと思う。
 つまり、本当のこと=「本音」は、切羽詰っている状態にポロっとこぼれ出てくるものなのだってこと。肥大した自意識によって、恥ずかしい思いを極度に恐れる彼らは、先回りして予測を立て、どんなときでもみっともない姿を見せないように心がけている。しかし、そうした予測が外れた瞬間、対応できずに切羽詰ってしまう。切羽詰るシーンが最も多い作品は、『僕といっしょ』だと思う。ラストの大泣きシーンをはじめ、切羽詰った挙句の「本音」がたくさん見出せる。
 多分だけど、『稲中』はギャグマンガ(笑わせることを目的にしたマンガ)だから切羽詰る(予測を裏切る)ことで爆笑を紡ぎだしていたわけだけど、ネタ切れと同時に爆笑の代わりに出てきた痙攣が、古谷実の「本音」としての『僕といっしょ』(あるいは『稲中』の後半)なんだと思う。

真:古谷実論8000字のための下書き その2


◇交換不可能な自分との邂逅
 では、満ち足りた状態であれば与えることができるのだろうか。それが『僕といっしょ』3巻において、イトキンと村田マリコのエピソードに描かれている。
 『僕といっしょ』3巻では、主人公の一人であるイトキンという14歳の少年が、村田マリコという少女と出会う。イトキンは精神的に虚弱な彼女に頼られてしまい、ある努力を強いられる*1のだが、結局努力することに耐えられなかったイトキンは、マリコを救うことに失敗する。
 イトキンは捨て子であり、いつもひとりぼっちで過ごしていた。早く時間が経つことだけを考え、シンナーばかり吸っている毎日だったのだが、もうひとりの主人公すぐ起らをはじめ、幸運な出会いを通して今ではすっかり「普通の子」としての幸せを享受している。そんなある日、川でシンナーを吸っている少女村田マリコと出会う。イトキンはマリコにかつての自分を見出し、さみしさに耐えられずにシンナーを吸うむなしさを語る。

なぁーに生きてりゃ嫌な事だってあるっつーの!!もちいい事だってあるっつーの!!んんっわかる!わかるよ!おじさんもねーそーだったんだよォ〜 君には出会いが足りないね!良い出会い!!そのうち「シンナーやめろー!!」とかって言ってくれるいい友達と出会えるからさ まぁそれまでガマンだな!!じゃっどーもーよろしくー
・・・・・・オレか?
・・・・・・・・・・オレっぽいよなぁ・・・・・・

自分は交換可能な存在であると宣言することで孤独のさみしさを紛らわし、全能感のみを得ていた『稲中』に対し*2、ここでイトキンが発見したものは、少なくともマリコにとって明らかに交換不可能な自分である。その発見をもってイトキンはマリコを救うことを決心し、二人は同棲をはじめることになる。
 イトキンは、その同棲生活を「努力する」のである。

オレは今日からガンバルのだ
<中略>寝るときは必ず心臓の方のオッパイに手をそえる
一日5回は泣く彼女を完璧になぐさめる
妙な集会で歌も歌う
<略>
彼女はすぐ怒る
でも仕事から帰ってくると子ネコちゃんのように甘えんぼさんなんだ
仕事のない日なんて24時間体のどこかが触れ合っている・・・・・・・
一歩も家を出ない日もある・・・・

マリコ 「どこ行くの?」
イトキン「コンビニ」
マリコ 「・・・・・・・・あたしも行く」

オレは思った
帰りたぁ〜〜〜い
何だこの暮らしは・・・・
オレの自由が消えていく
翼のモゲる音がする・・・・

つまりその努力とは、孤独であるがゆえの全能感を捨てるというものであった。
 イトキンは、このとき幸せを享受していた。この幸せとは、つまり『稲中』の爆笑とハイテンションの毎日と同様、思春期の一時期のみに可能な“さみしさの忘却”である。イトキンはさみしさのない孤独、つまり「自由」を満喫しており、イトキンがマリコを救おうと思ったのは善意であった。しかし彼はこのとき、まだ前野の発見した孤独のさみしさに気付いていなかった。だからこそ与えることに挑戦できたともいえるが、それゆえに彼はマリコを救えなかったといえる。
 前野は孤独の全能感を失ったために求めることしか出来ず、イトキンは孤独の全能感を保持しているがゆえに与えることが出来なかった。
 孤独のさみしさは自らを交換可能だと言い切ることで忘れることができる。自分は交換可能であるが故に、比べる他者を持たない。だから全能であることができる。自分を交換可能だと執拗に叫ぶことと、自分が唯一絶対と思い込むことは同義なのである。
 そのことこそ、問題作『ヒミズ』の主人公住田の主張であった。住田は、孤独とはさみしさと全能感が表裏一体となっていることに気付いている。イトキン、前野と同世代の彼には、さみしさに耐えかねて全能感を捨てるか、全能感を欲するゆえにさみしさに耐えるかの選択を迫られる。結果、彼は全能感を保持するため、さみしさとの格闘が始まる。そして“あの”結末は、住田がさみしさに負けたと同時に、勝利して真に全能となったことをも示している。つまりそれこそ「孤独に喰われる」(『グリーンヒル』3巻より)という表現に集約される結末であり、孤独を克服することの、一方の頂点である。全能感を保持することを突き詰め、その極致まで到達したからこそ、その直後から、極めて倫理的な作品『シガテラ』の連載を始めることが可能となったのである。

*3

*1:メモ:その努力がつまり、孤独の全能感を捨てるということ

*2:メモ:「孤独のさみしさから逃れるためには自分を交換可能だと宣言する」ってことをきちんと死ね死ね団のところにいれること

*3:これは思春期のほんの一瞬のみ可能な方法でしかなく、その後それぞれの人格が出来上がっていくにつれ、仲間は(この時期に比べると)疎遠になっていく。ここで、僕らは「孤独は紛らわせるものではない」ということに気付き、対応を迫られるのである。だから、『僕といっしょ』より少し上の年齢の男の子を描いた『シガテラ』では、主人公荻野くんは幸せという不安から逃げようと思っても、どこにも逃げ場がないことに気付き、イトキンが失敗した「努力」にもう一度挑戦するのである。今度は単なる善意ではなく、前野的なさみしさとともに必要とされるのである。

真:古谷実論8000字のための下書き その1

 古谷実の作品には、常に「孤独」が描かれる。主人公たちが、ほとんど執拗と思われるほどの誠実さを持ち合わせているのは、彼らが孤独に心底怯えているいるからである。孤独を恐れ、そこから逃れることを考えてきた結果が、いってみれば求道者としての古谷作品の主人公たちを作っているのだと思う。

思春期の孤独1

 『行け!稲中卓球部』『僕といっしょ』『ヒミズ』は、中学生くらいの年齢の、つまり思春期の男子の抱える孤独を扱った作品である。この時期の少年たちは、非常にアンビバレントな形で孤独と向き合っている。彼らは孤独をさみしいと感じながら、心地よいとも思っているのだ。孤独とは、誰からも必要とされない(と思っている)状態であると同時に、誰も必要としていない(と思っている)状態でもある。それはさみしいというネガティヴな感情とともに、全能感に支えられた、ある種の居心地のよさみたいなものも用意する。
 『稲中』はストレートなくだらなさとハイテンションな勢いで描かれる学園モノのギャグマンガとしてスタートしたのだが、連載の終盤になると、そのハイテンションの奥に隠されたさみしさはもはや隠し切れないものとなっている。
 孤独のさみしさと全能感は、通常分かちがたく結びついているものである。が、思春期の一時期のみ、さみしさという孤独のネガティヴな側面のみ忘れることができる。その方法がつまりハイテンションと爆笑であり、これは仲間とも呼ぶべき連帯によって生成される。『稲中』において、それは“死ね死ね団”というシニカル系過激派組織という仲間の形が描かれている。
 さて、思春期の孤独を説明する上で、この“死ね死ね団”を例にあげようと思う。これは他の古谷作品にも見出せるシニカルな姿勢が、最も明示的されているからだ。


◇求道者としての“死ね死ね団
 これは“ラブコメ死ね死ね団”の略称であり、彼らはラブコメのような美辞麗句に溢れかえる世界を徹底的に嫌悪し、嘲笑し、攻撃する。世の中一般に溢れかえる「愛」やら「夢」やら「友情」やらといった言葉の希薄さを糾弾する組織なのである。しかし連載が進むにつれ、その過剰なまでに攻撃的な行為は、単にギャグマンガという構造上の都合だけではなく、実は主人公達が抱える「愛」や「夢」や「友情」への猛烈な希求の裏返しであることが明らかになっていく。つまり“死ね死ね団”の過激な行動とは、リアリティを失った安易な言葉を徹底的に糾弾しながら、真に自分が信じられる何か=真実を追い求める姿勢なのである。

 そんな彼らが最も敵視するものに、「肥大した自意識」がある。これは「かけがえのない、交換不可能な自分」というのが喧伝され、社会的な役割としての自分が交換不可能であるかのような拡大解釈のひとつといえるだろう。自分の交換可能性に耐えられず、自分を過剰に絶対視する姿勢である。つまり、見られたい自分像と実際に他人に映る自分像の間に確実に存在するギャップに対して、その原因を他人の目の欠陥だと主張するような態度をこそ、彼らの最も嫌う態度であり、主人公である前野や井沢は、自分を絶対視することへのアンチとして、過剰なまでの相対化という視点を持ち込む。
 しかし前野や井沢の誠実さは、肥大した自意識を糾弾する自分の中にこそ、グロテスクに肥大した自意識があるということを見逃せない。過剰なまでの攻撃性は、他者に映し出された自分に対するものであることに自覚的なのである。*1
 例えば、ヘアヌードカメラマンになりたいと言い出した井沢が、同級生の女子である神谷を脱がそうとするという、流れだけなら単なるおバカな中学生男子のエピソードがあるのだが(『行け!稲中卓球部』12巻「僕の夢」)、そのときのやりとりだけを抜き出すとこんな感じになっている。 

 井沢「人間ってどうして服を着るのかな?」「僕は人に変わりモノに見られたいから 僕はアーチストっぽく賢そうにキメたいから 私はちょっと不思議少女に見られたいから」
 神谷「それは自己表現ですよ!表現は自由ですもん!」
 井沢「そう 表現は自由だ 大いにかまわない」「しかしそんな彼らは一日のカロリーを「服」に費やしたりしている・・・・」「ゴミをひろえゴミをー!!!どーなってんだよ!?」
 「昔々アダムとイヴは素っ裸で仲良くやってましたー!!じゃどして服なんか着だしたワケ!?ね どーして!?」
 神谷「きっ禁断の果実を食べたからです」
 井沢「どっちが食べた!?男か女か!?どっちだ!!?」
 神谷「イッイヴです!!」
 井沢「女のほうか・・・・」
 前野&田中「責任とって!!僕たちはすっぱだかでいたかった!!」(←泣きながら)

 そう、彼らは「すっぱだか」でいたかったのである。すっぱだかの自分とは、小さくてしょぼい自分、いつも口だけな自分、カッコつけて大きく見せたがっている自分、醜く恥ずかしい不細工な自分のことである。彼らはそんなすっぱだかの自分を直視することができない*2。それ故に、肥大した自意識を嫌うと同時に、それに頼らざるを得ない自分を発見してしまうのである。


◇“死ね死ね団”の孤独、そして恋愛
 連載の終盤、特に10巻あたりから、孤独のさみしさを吐露する場面が増えてくる。これはおそらく、ギャグが先鋭化し、ネタが乏しくなってきたことと無関係ではない。ハイテンションと爆笑が、ギャグマンガという形式の限界によって維持できなくなり、隠してきた孤独のさみしさが噴出してしまうのである。
 「肥大した自意識」という衣服を纏うことを忌み嫌いながらも、すっぱだかの自分を直視できない彼らは、誰かにすっぱだかの自分を見せ、且つまるごと受け入れてもらうことを願う。自分を理解し、受け入れてくれる他者を猛烈に望まなければならないほど、彼らの中にある孤独が溢れ出てしまっているのだ。古谷作品における「恋愛」は、基本的にどれもそのような視線で描かれている。彼らが恋愛において期待するのは、お互いに唯一の存在だと思えるような、真実の「愛」を得ることによって、孤独から救済されるということである。
 『稲中』12巻の『心』『愛』『目を狙え』という連続したエピソードに登場する女の子、キクちゃんは、すっぱだかの前野を受け入れてくれる可能性を持っていた。前野は、顔はブス(この造詣がまたモノスゴイ)だが、心はものすごくキレイな女の子、キクちゃんから愛の告白を受け、付き合うことを決意する。井沢からキクちゃんがブスだと指摘されると、前野は以下のような返答をする。

お前にとって女の子は服や車といっしょなんだろ?ショボい自分をきわだたせるためのいちアイテムにしかすぎないんだろ?(中略)オレは違うね・・・・見た目を自慢するために女性とおつきあいするんじゃない 互いに真の愛を追い求めるために心の美しい女性を探していたんだ・・・・

「人間の美しさは見た目とは関係ない。心である。」。そんなキレイゴトにアンチを唱え続けてきた前野であったが、このエピソードにおいてはアンチの姿勢を一端崩し、あえて世の中一般でまかり通る価値観に身を委ねることを実践する。それは実際、前野が世間一般に流通する虚飾への挑戦であり、同時に彼自身の理想でもあった。世の中のキレイゴトを嫌い、それらと本気で差別化を図ろうとしたのである。
 ところが、やはり前野はキクちゃんと一緒に街を歩くことに恥ずかしさを覚えてしまう。偶然出会った友人にキクちゃんをペットだと言い放つ。それは自分の醜い自意識を露呈させることであり、彼は世のキレイゴトと差別化を図りながら、結局ショボい自分を直視できない自分に絶望するのである。けれどもそんなひどい仕打ちを、キクちゃんは「私はブスだからしょうがない」と話し、受け入れてくれる。前野はそんなキクちゃんに、弱くてショボいすっぱだかの自分が受け入れられる可能性を感じる。彼女となら、唯一の関係を築き上げられるのではないかという期待を抱く。
 ところが、キクちゃんに自分の好きな理由を尋ねた直後から、事態は変化していく。キクちゃんが前野を好きなのは、彼が不細工だからという。前野は不細工だから、ブスな人の気持ちがわかるだろう。そう感じたから、キクちゃんは前野に近づいたのである。前野がこの発言に疑問を受けたのは、彼が不細工と言われたことよりもむしろ、前野がキクちゃんにとっての唯一ではなかった点にある。彼はつまり、無条件に肯定してくれる母性を求めるほど孤独なのである*3。結局彼はアクシデントとともに彼女の心のキレイでない部分を発見し、泣きながら別れることになる。

 これは結局、求めるばかりの独善的な欲求でしかない。そのような姿勢は、彼らの最も嫌う自分の絶対化に他ならない。そのことへの反省は『僕といっしょ』における、イトキンの恋愛エピソードに生かされることになる。そこで彼は、与える愛にも挑戦するのである。

*1:メモ:過剰なまでの相対化も、過剰な絶対化と全く同じである

*2:とかいって、死ね死ね団はすぐに裸になるじゃないかっていう反論があると思うのだけど、これに関しては一言言っておきたい。彼らがすぐに服を脱ぐのは、すっぱだかの自分を晒すことへの恐怖があるからに他ならない。そもそも、彼らが学校の中で変態と蔑まれ、指を指されて笑われるような役割を甘んじて受ける・・・というより、むしろ買って出るのは、先に笑われる存在になっておけば、それ以上笑われることがないだろう、という考えのもとである。それと同様の図式で、服を脱いで恥ずかしい思いをしておけば、それ以上の恥ずかしいことは起こらないであろう、というように先手を打っているのである

*3:このあたりは、ジョージ秋山の『銭ゲバ』に通じるものがあるよね