真:古谷実論8000字のための下書き その1

 古谷実の作品には、常に「孤独」が描かれる。主人公たちが、ほとんど執拗と思われるほどの誠実さを持ち合わせているのは、彼らが孤独に心底怯えているいるからである。孤独を恐れ、そこから逃れることを考えてきた結果が、いってみれば求道者としての古谷作品の主人公たちを作っているのだと思う。

思春期の孤独1

 『行け!稲中卓球部』『僕といっしょ』『ヒミズ』は、中学生くらいの年齢の、つまり思春期の男子の抱える孤独を扱った作品である。この時期の少年たちは、非常にアンビバレントな形で孤独と向き合っている。彼らは孤独をさみしいと感じながら、心地よいとも思っているのだ。孤独とは、誰からも必要とされない(と思っている)状態であると同時に、誰も必要としていない(と思っている)状態でもある。それはさみしいというネガティヴな感情とともに、全能感に支えられた、ある種の居心地のよさみたいなものも用意する。
 『稲中』はストレートなくだらなさとハイテンションな勢いで描かれる学園モノのギャグマンガとしてスタートしたのだが、連載の終盤になると、そのハイテンションの奥に隠されたさみしさはもはや隠し切れないものとなっている。
 孤独のさみしさと全能感は、通常分かちがたく結びついているものである。が、思春期の一時期のみ、さみしさという孤独のネガティヴな側面のみ忘れることができる。その方法がつまりハイテンションと爆笑であり、これは仲間とも呼ぶべき連帯によって生成される。『稲中』において、それは“死ね死ね団”というシニカル系過激派組織という仲間の形が描かれている。
 さて、思春期の孤独を説明する上で、この“死ね死ね団”を例にあげようと思う。これは他の古谷作品にも見出せるシニカルな姿勢が、最も明示的されているからだ。


◇求道者としての“死ね死ね団
 これは“ラブコメ死ね死ね団”の略称であり、彼らはラブコメのような美辞麗句に溢れかえる世界を徹底的に嫌悪し、嘲笑し、攻撃する。世の中一般に溢れかえる「愛」やら「夢」やら「友情」やらといった言葉の希薄さを糾弾する組織なのである。しかし連載が進むにつれ、その過剰なまでに攻撃的な行為は、単にギャグマンガという構造上の都合だけではなく、実は主人公達が抱える「愛」や「夢」や「友情」への猛烈な希求の裏返しであることが明らかになっていく。つまり“死ね死ね団”の過激な行動とは、リアリティを失った安易な言葉を徹底的に糾弾しながら、真に自分が信じられる何か=真実を追い求める姿勢なのである。

 そんな彼らが最も敵視するものに、「肥大した自意識」がある。これは「かけがえのない、交換不可能な自分」というのが喧伝され、社会的な役割としての自分が交換不可能であるかのような拡大解釈のひとつといえるだろう。自分の交換可能性に耐えられず、自分を過剰に絶対視する姿勢である。つまり、見られたい自分像と実際に他人に映る自分像の間に確実に存在するギャップに対して、その原因を他人の目の欠陥だと主張するような態度をこそ、彼らの最も嫌う態度であり、主人公である前野や井沢は、自分を絶対視することへのアンチとして、過剰なまでの相対化という視点を持ち込む。
 しかし前野や井沢の誠実さは、肥大した自意識を糾弾する自分の中にこそ、グロテスクに肥大した自意識があるということを見逃せない。過剰なまでの攻撃性は、他者に映し出された自分に対するものであることに自覚的なのである。*1
 例えば、ヘアヌードカメラマンになりたいと言い出した井沢が、同級生の女子である神谷を脱がそうとするという、流れだけなら単なるおバカな中学生男子のエピソードがあるのだが(『行け!稲中卓球部』12巻「僕の夢」)、そのときのやりとりだけを抜き出すとこんな感じになっている。 

 井沢「人間ってどうして服を着るのかな?」「僕は人に変わりモノに見られたいから 僕はアーチストっぽく賢そうにキメたいから 私はちょっと不思議少女に見られたいから」
 神谷「それは自己表現ですよ!表現は自由ですもん!」
 井沢「そう 表現は自由だ 大いにかまわない」「しかしそんな彼らは一日のカロリーを「服」に費やしたりしている・・・・」「ゴミをひろえゴミをー!!!どーなってんだよ!?」
 「昔々アダムとイヴは素っ裸で仲良くやってましたー!!じゃどして服なんか着だしたワケ!?ね どーして!?」
 神谷「きっ禁断の果実を食べたからです」
 井沢「どっちが食べた!?男か女か!?どっちだ!!?」
 神谷「イッイヴです!!」
 井沢「女のほうか・・・・」
 前野&田中「責任とって!!僕たちはすっぱだかでいたかった!!」(←泣きながら)

 そう、彼らは「すっぱだか」でいたかったのである。すっぱだかの自分とは、小さくてしょぼい自分、いつも口だけな自分、カッコつけて大きく見せたがっている自分、醜く恥ずかしい不細工な自分のことである。彼らはそんなすっぱだかの自分を直視することができない*2。それ故に、肥大した自意識を嫌うと同時に、それに頼らざるを得ない自分を発見してしまうのである。


◇“死ね死ね団”の孤独、そして恋愛
 連載の終盤、特に10巻あたりから、孤独のさみしさを吐露する場面が増えてくる。これはおそらく、ギャグが先鋭化し、ネタが乏しくなってきたことと無関係ではない。ハイテンションと爆笑が、ギャグマンガという形式の限界によって維持できなくなり、隠してきた孤独のさみしさが噴出してしまうのである。
 「肥大した自意識」という衣服を纏うことを忌み嫌いながらも、すっぱだかの自分を直視できない彼らは、誰かにすっぱだかの自分を見せ、且つまるごと受け入れてもらうことを願う。自分を理解し、受け入れてくれる他者を猛烈に望まなければならないほど、彼らの中にある孤独が溢れ出てしまっているのだ。古谷作品における「恋愛」は、基本的にどれもそのような視線で描かれている。彼らが恋愛において期待するのは、お互いに唯一の存在だと思えるような、真実の「愛」を得ることによって、孤独から救済されるということである。
 『稲中』12巻の『心』『愛』『目を狙え』という連続したエピソードに登場する女の子、キクちゃんは、すっぱだかの前野を受け入れてくれる可能性を持っていた。前野は、顔はブス(この造詣がまたモノスゴイ)だが、心はものすごくキレイな女の子、キクちゃんから愛の告白を受け、付き合うことを決意する。井沢からキクちゃんがブスだと指摘されると、前野は以下のような返答をする。

お前にとって女の子は服や車といっしょなんだろ?ショボい自分をきわだたせるためのいちアイテムにしかすぎないんだろ?(中略)オレは違うね・・・・見た目を自慢するために女性とおつきあいするんじゃない 互いに真の愛を追い求めるために心の美しい女性を探していたんだ・・・・

「人間の美しさは見た目とは関係ない。心である。」。そんなキレイゴトにアンチを唱え続けてきた前野であったが、このエピソードにおいてはアンチの姿勢を一端崩し、あえて世の中一般でまかり通る価値観に身を委ねることを実践する。それは実際、前野が世間一般に流通する虚飾への挑戦であり、同時に彼自身の理想でもあった。世の中のキレイゴトを嫌い、それらと本気で差別化を図ろうとしたのである。
 ところが、やはり前野はキクちゃんと一緒に街を歩くことに恥ずかしさを覚えてしまう。偶然出会った友人にキクちゃんをペットだと言い放つ。それは自分の醜い自意識を露呈させることであり、彼は世のキレイゴトと差別化を図りながら、結局ショボい自分を直視できない自分に絶望するのである。けれどもそんなひどい仕打ちを、キクちゃんは「私はブスだからしょうがない」と話し、受け入れてくれる。前野はそんなキクちゃんに、弱くてショボいすっぱだかの自分が受け入れられる可能性を感じる。彼女となら、唯一の関係を築き上げられるのではないかという期待を抱く。
 ところが、キクちゃんに自分の好きな理由を尋ねた直後から、事態は変化していく。キクちゃんが前野を好きなのは、彼が不細工だからという。前野は不細工だから、ブスな人の気持ちがわかるだろう。そう感じたから、キクちゃんは前野に近づいたのである。前野がこの発言に疑問を受けたのは、彼が不細工と言われたことよりもむしろ、前野がキクちゃんにとっての唯一ではなかった点にある。彼はつまり、無条件に肯定してくれる母性を求めるほど孤独なのである*3。結局彼はアクシデントとともに彼女の心のキレイでない部分を発見し、泣きながら別れることになる。

 これは結局、求めるばかりの独善的な欲求でしかない。そのような姿勢は、彼らの最も嫌う自分の絶対化に他ならない。そのことへの反省は『僕といっしょ』における、イトキンの恋愛エピソードに生かされることになる。そこで彼は、与える愛にも挑戦するのである。

*1:メモ:過剰なまでの相対化も、過剰な絶対化と全く同じである

*2:とかいって、死ね死ね団はすぐに裸になるじゃないかっていう反論があると思うのだけど、これに関しては一言言っておきたい。彼らがすぐに服を脱ぐのは、すっぱだかの自分を晒すことへの恐怖があるからに他ならない。そもそも、彼らが学校の中で変態と蔑まれ、指を指されて笑われるような役割を甘んじて受ける・・・というより、むしろ買って出るのは、先に笑われる存在になっておけば、それ以上笑われることがないだろう、という考えのもとである。それと同様の図式で、服を脱いで恥ずかしい思いをしておけば、それ以上の恥ずかしいことは起こらないであろう、というように先手を打っているのである

*3:このあたりは、ジョージ秋山の『銭ゲバ』に通じるものがあるよね