真:古谷実論8000字のための下書き その2


◇交換不可能な自分との邂逅
 では、満ち足りた状態であれば与えることができるのだろうか。それが『僕といっしょ』3巻において、イトキンと村田マリコのエピソードに描かれている。
 『僕といっしょ』3巻では、主人公の一人であるイトキンという14歳の少年が、村田マリコという少女と出会う。イトキンは精神的に虚弱な彼女に頼られてしまい、ある努力を強いられる*1のだが、結局努力することに耐えられなかったイトキンは、マリコを救うことに失敗する。
 イトキンは捨て子であり、いつもひとりぼっちで過ごしていた。早く時間が経つことだけを考え、シンナーばかり吸っている毎日だったのだが、もうひとりの主人公すぐ起らをはじめ、幸運な出会いを通して今ではすっかり「普通の子」としての幸せを享受している。そんなある日、川でシンナーを吸っている少女村田マリコと出会う。イトキンはマリコにかつての自分を見出し、さみしさに耐えられずにシンナーを吸うむなしさを語る。

なぁーに生きてりゃ嫌な事だってあるっつーの!!もちいい事だってあるっつーの!!んんっわかる!わかるよ!おじさんもねーそーだったんだよォ〜 君には出会いが足りないね!良い出会い!!そのうち「シンナーやめろー!!」とかって言ってくれるいい友達と出会えるからさ まぁそれまでガマンだな!!じゃっどーもーよろしくー
・・・・・・オレか?
・・・・・・・・・・オレっぽいよなぁ・・・・・・

自分は交換可能な存在であると宣言することで孤独のさみしさを紛らわし、全能感のみを得ていた『稲中』に対し*2、ここでイトキンが発見したものは、少なくともマリコにとって明らかに交換不可能な自分である。その発見をもってイトキンはマリコを救うことを決心し、二人は同棲をはじめることになる。
 イトキンは、その同棲生活を「努力する」のである。

オレは今日からガンバルのだ
<中略>寝るときは必ず心臓の方のオッパイに手をそえる
一日5回は泣く彼女を完璧になぐさめる
妙な集会で歌も歌う
<略>
彼女はすぐ怒る
でも仕事から帰ってくると子ネコちゃんのように甘えんぼさんなんだ
仕事のない日なんて24時間体のどこかが触れ合っている・・・・・・・
一歩も家を出ない日もある・・・・

マリコ 「どこ行くの?」
イトキン「コンビニ」
マリコ 「・・・・・・・・あたしも行く」

オレは思った
帰りたぁ〜〜〜い
何だこの暮らしは・・・・
オレの自由が消えていく
翼のモゲる音がする・・・・

つまりその努力とは、孤独であるがゆえの全能感を捨てるというものであった。
 イトキンは、このとき幸せを享受していた。この幸せとは、つまり『稲中』の爆笑とハイテンションの毎日と同様、思春期の一時期のみに可能な“さみしさの忘却”である。イトキンはさみしさのない孤独、つまり「自由」を満喫しており、イトキンがマリコを救おうと思ったのは善意であった。しかし彼はこのとき、まだ前野の発見した孤独のさみしさに気付いていなかった。だからこそ与えることに挑戦できたともいえるが、それゆえに彼はマリコを救えなかったといえる。
 前野は孤独の全能感を失ったために求めることしか出来ず、イトキンは孤独の全能感を保持しているがゆえに与えることが出来なかった。
 孤独のさみしさは自らを交換可能だと言い切ることで忘れることができる。自分は交換可能であるが故に、比べる他者を持たない。だから全能であることができる。自分を交換可能だと執拗に叫ぶことと、自分が唯一絶対と思い込むことは同義なのである。
 そのことこそ、問題作『ヒミズ』の主人公住田の主張であった。住田は、孤独とはさみしさと全能感が表裏一体となっていることに気付いている。イトキン、前野と同世代の彼には、さみしさに耐えかねて全能感を捨てるか、全能感を欲するゆえにさみしさに耐えるかの選択を迫られる。結果、彼は全能感を保持するため、さみしさとの格闘が始まる。そして“あの”結末は、住田がさみしさに負けたと同時に、勝利して真に全能となったことをも示している。つまりそれこそ「孤独に喰われる」(『グリーンヒル』3巻より)という表現に集約される結末であり、孤独を克服することの、一方の頂点である。全能感を保持することを突き詰め、その極致まで到達したからこそ、その直後から、極めて倫理的な作品『シガテラ』の連載を始めることが可能となったのである。

*3

*1:メモ:その努力がつまり、孤独の全能感を捨てるということ

*2:メモ:「孤独のさみしさから逃れるためには自分を交換可能だと宣言する」ってことをきちんと死ね死ね団のところにいれること

*3:これは思春期のほんの一瞬のみ可能な方法でしかなく、その後それぞれの人格が出来上がっていくにつれ、仲間は(この時期に比べると)疎遠になっていく。ここで、僕らは「孤独は紛らわせるものではない」ということに気付き、対応を迫られるのである。だから、『僕といっしょ』より少し上の年齢の男の子を描いた『シガテラ』では、主人公荻野くんは幸せという不安から逃げようと思っても、どこにも逃げ場がないことに気付き、イトキンが失敗した「努力」にもう一度挑戦するのである。今度は単なる善意ではなく、前野的なさみしさとともに必要とされるのである。