ホントにメモ書き

 1.93年当時のギャグマンガ状況(吉田戦車以降「非・常識」ナンセンスギャグの台頭 参考:『爆心地の芸術』)
 2.交換不可能な自分への徹底的な懐疑(交換可能な自分に絶望することのおこがましさ 参考:『完全自殺マニュアル』)
 3.『稲中』がギャグという体裁を取ったワケ(アンチ「かけがえのない自分」=嘲笑)
 4.ギャグマンガ(=笑わせるためのマンガ)を終え、『僕といっしょ』というストーリー物へ(笑えるけれども、笑わせるためのマンガではなくなる)(『稲中』のハイテンションに支えられたギャグが臨界点に達したとき、ギャグによって覆い隠そうとしていた部分=孤独の疎外感が露わになる)
 5.『僕といっしょ』で提示された問題意識(孤独の疎外感/全能感 圧倒的な世界に対して非力な自分 「交換可能な自分」という方便を使って逃げ場を用意している→ここではないどこかを求める)
 6.『グリーンヒル』の「もうしょうがない」(思春期を越えた中年の孤独は疎外感しか残らない。ここではないどこかはない)
 7.世界と一体化することで全能であろうとする『ヒミズ』(ギャグで疎外感をかき消すのではなく、むしろ引き受ける代わりに、全能感を加速させることでつりあいを持たせる。いわばもうひとつの『稲中』。)
 8.孤独であることの疎外感と全能感を同時に捨てる『シガテラ
 9.古谷実の想像力(求道者ゆえのもの。『僕といっしょ』以降のストーリーモノと無関係でない)
ギャグマンガとして優れている『稲中』(画力と空気感・・・変なモノの描き方)
言葉のセンス(ありふれた言葉からありきたりでない意味を紡ぐ→日常に潜む異様なモノ→『ヒミズ』のバケモノ・・・参考:諸星大二郎『不安の立像』)
切羽詰った人間=痙攣(先回りし損ねた部分→本音)・・・「爆笑」という身体反応を感覚的によく知っている。
真っ向から爆笑に挑むギャグマンガ作家としての姿勢が、切羽詰る身体を作り出し、「真剣さ」を演出する。『僕といっしょ』のラストの大泣きシーン。
<切羽詰ることを知る作家>
◇爆笑っていうのはつまり身体的な痙攣反応なわけで、何事にもアンチを唱える『稲中』は、爆笑のみを信じてやってきたといえる。痙攣している身体を感じることで実存としての自分を確かめていたのだと思う。
 つまり、本当のこと=「本音」は、切羽詰っている状態にポロっとこぼれ出てくるものなのだってこと。肥大した自意識によって、恥ずかしい思いを極度に恐れる彼らは、先回りして予測を立て、どんなときでもみっともない姿を見せないように心がけている。しかし、そうした予測が外れた瞬間、対応できずに切羽詰ってしまう。切羽詰るシーンが最も多い作品は、『僕といっしょ』だと思う。ラストの大泣きシーンをはじめ、切羽詰った挙句の「本音」がたくさん見出せる。
 多分だけど、『稲中』はギャグマンガ(笑わせることを目的にしたマンガ)だから切羽詰る(予測を裏切る)ことで爆笑を紡ぎだしていたわけだけど、ネタ切れと同時に爆笑の代わりに出てきた痙攣が、古谷実の「本音」としての『僕といっしょ』(あるいは『稲中』の後半)なんだと思う。