日常が終わると思ってしまった方へ

 どうしても今回の一件にあたって、やはり僕は古谷実抜きで考えることはできません。よって、超ひさびさにこちらのブログを更新します。
 今回の一件というのは、いうまでもなく2011年3月11日に起きた大地震・大津波、そしてそれによって起きた福島原発事故、及びそれらに対する様々な反応のことです。
 このエントリを書いている現在、災害における死者行方不明者数は増加の一途を辿り、福島原発の危機は落ち着かず、数多くの方が危険な避難所生活を強いられているという状況です。東京から西の方に避難する方も少なからず居るそうで、それがけして大袈裟ではない、むしろひとつの賢明な態度のひとつであるとさえ思える状態です。かくいう僕の父方の親戚も、多くが宮城在住であり、13日頃にとりあえずの安否確認はできたものの、上記の問題を抱えている関係上、まだまだどうなるかわかりません。
 連日の報道やネット上の反応などを見るに、これが未曾有の大災害であるという認識が共有されており、それは全くその通りだと思います。しかし、それは言うまでもなく災害の規模の話であり、災害の規模が未曾有だからといって、不安の大きさも未曾有であるかといえば、それは全く別ものであるように思っています。
 今回の死者行方不明者数が、随時更新され増えていきます。恥ずかしく、そして本当に馬鹿でくだらない話ですが、阪神淡路大震災のとき、僕はこの様子を数字としてしか捉えられませんでした。小学4年生であったにも関わらず、いやそういう年齢の話云々以前に、本質的に幼くガキな感受性の持ち主でした。当たり前のことですが、これは悲しみを表す数値ではなく、不幸が何人の上に訪れたか、ということしか言えないものです。そして、震災によって不幸に陥ることも、交通事故や病気によって不幸に陥ることも、人為的か否かの違いこそあれ、計量不可能な悲しみという意味においては同じものです。
 何が言いたいのかというと、日常というものの話です。
 この3月11日以降、私達が当たり前のように享受してきた日常というものが、突如として足下から崩れ去る様子をまざまざと見せつけられているように感じる人は居るでしょう。一見、それは事実のように見えます。しかしこういうとき、私達にとって日常のリアリティとはなんだったかを思い出すと、それはそんな単純なことではなかったような気がしてきます。日常というのは、そもそもからして「突如として足下から崩れ去る」という前提の上に成り立っているものではなかったでしょうか。
 日常というものが空から勝手に降ってくるものであり、それをただ享受するだけだと思っていた人は、1995年、阪神淡路大震災において圧倒的な暴力を目の当たりにし、その熱にほだされ、なんと自ら暴力を奮ってしまった。これは、どこまでものんびりと阿呆のように口を開けた思考回路だと言わざるを得ません。いつ訪れるともしれない不幸の上でギリギリ立っている日常に、地震の後でさえ気付けない。むしろ地震が日常を破壊する様を見て、はしたなく興奮しているだけ。彼らにとってそれまでの日常とは、それだけ自分と無関係で、強固で頑丈でびくともしないように思えていたのでしょう。そして彼らは日常を破壊することを夢見てしまった。しかし当たり前のことですが、それは全くすごいことではない。元々日常というのがぐらぐらしたものである以上、それをぽんと押して倒してしまうことなど、誰にでも簡単にできる。オウム真理教という集団が情けなくなる程しょぼかったことが思い出されます。
 しかし、これは単に1995年が浮かれた時代であった、という話にとどまりません。今回の地震を戦争の比喩で語る人のどの程度がそうかはわかりませんが、戦争と地震を違和感なく直結させてしまうところに、僕は短絡的で稚拙な暴力の連鎖を感じずにはいられません。
 いま、僕はここで、古谷実シガテラ』を読み返します。あそこで描かれていたことは一体なんだったのか。主人公荻野にとって、日常というものはどのように発見され、紡がれていくものになったのか。
 荻野は作品終盤、自分が不幸の元凶であると思いこみ、恋人である南雲さんを喪う可能性に怯えます。しかしそれでも、一瞬後には恐ろしい不幸が待ち受けている可能性も込みで、それでも不安を内包したまま生きることを決意します。それはなぜでしょうか。

死ぬほど好きな人を・・・・・・・・幸せにできるかどうか?
(中略)
わかった!!!答えは「不幸になるまで がんばる」!!! だ!!!
そりゃそうさ!!がんばるさ!!だって死んでしまうからね!!!
OK南雲さん!!不幸が訪れる寸前まで僕は!!
君を超幸せにするぜえええええええ!!!
             〜古谷実シガテラ』6巻〜
http://d.hatena.ne.jp/akiraah/20070112

 荻野の答えは、「今が不幸ではないから」という至極シンプルな、そして明晰なものです。これをもう少し細かく見ると、不幸や幸福それ自体よりも「がんばる」ということの強さに気付くことができます。それは「不幸になるまで」という部分をも乗り越えてしまう力強さを持っています。
 『シガテラ』の最終話に描かれた、荻野と南雲さんのその後を思い出してみます。そこでは荻野の上には、まさしく「不幸」が訪れています。しかしそれでも荻野は死ぬことなく、それどころか幸福とさえ思える日常を獲得している。どうしてこんなことができるのか。それは、不幸や幸福と、絶望や希望を、それぞれ別々のものとして切り離すことができているからではないでしょうか。
 不幸や幸福というのは、そのときの状態しか表すことができません。そして「がんばる」「がんばら(れ)ない」というのは希望と絶望、つまり姿勢の話です。状態と姿勢の間には相関関係を結ぶこともできますが、それゆえに、それらは独立した概念だということができるでしょう。つまり、「不幸になるまで がんばる」という宣言の裏では、不幸や幸福と、絶望や希望の、切り離しが行われている。だから、実際に「不幸」が訪れても、荻野は絶望に陥ることはなかった。
 「がんばる」という運動は、生きている以上絶えず行われる運動です。がんばらないと、死んでしまう。それは、生命がなくなるという意味だけにとどまらず、無力感に陥って、動けなくなってしまうということをも指します。私達はここで、無力感に陥るよりも先に、既に、常に、動いている自分に気付くはずです。脈や鼓動のリズムによって、日常というものが生まれ落ちて来たという、ごくごく当たり前の事実を、今こそ思い出すべきです。
 日常というのは、誰かから勝手に与えられ、消費されるものではありません。不幸や幸福と隣り合わせのところで、しかしそれでも尚、私達が望み、この手で育てるものです。そしてその行為は、生きている以上終わることがありません。日常が終わらないことに、いやそもそも、何も終わらないことに、私達はポジティヴであらざるを得ないのではないか。シガテラを読んで以来ずっと、僕はそう感じているのだと思います。


絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
家族は昨日西に逃がした
いちこの故郷東広島
子供だけでも生き延びられるよう
放射能自分に今可能
な 手だて これくらい そして
仕事あるから自分だけ今日
新幹線乗って戻る東京
家族とはなれまるで出稼ぎ
エクソダスしたくてもダメ出す
家庭の事情家計簿参照
募金一円もまだしてない
帰ってきたら昨日より暗い
地下鉄構内いつも通るだけど
壊れちゃいないもとあった風景
家もまだあるとりあえずOK
FUCKまだ余震びびる落ち着け
SUCKまたよぎる最悪のシナリオ
まさかくたばる冗談じゃないよ
思い残すことあり過ぎーる
エクソダス願いここにいる
電気つくうちにかたずける
アップするまで止まんなよ
ポッケのロック握りしめ
一体今日で何日目
絶対作るぞ三人目
絶対つくーる絶対つくーる
絶対作るぞ三人目
ECD『exodus11』〜