松江哲明「セキ☆ララ」 上映後のトークライブは宮台真司氏との対談

 「あんにょんキムチ」に続く在日モノドキュメンタリー・・・かと思いきや、まあ確かにそうなんですが、韓国系日本人とか在日とかってこと以前に「家族」の問題を感じました。アダルトビデオの世界にいる韓国系日本人、3世の女優さんと、2世の名男優:花岡じったさんが主役です。1世・2世・3世で考え方がまったく違うというのが韓国系日本人の特徴。ここに、3世である監督の言葉を引用します。

数年前までぼくは「もう在日ネタはやらない」と言っていた。過去の歴史を追うのは性に合わないと思っているし、いわゆる「悲しい過去」を一方的に聞かされるのはしんどい。「ああ、そうですか」と答えざるを得ない気持ちも分からなくもない。それでも誰かに「数十年後には在日コリアンはいなくなる」と言われた時、一瞬だけ「いなくなる」って言葉に反感を覚え、その直後に「それなら撮らないとな」と思った。それも出来るだけ同世代を。一世のおじいさん、おばあさんではなく、三世とか四世といった若い世代を。

 そういえば松江監督は「あんにょんキムチ」で、妹さんがまったく日本人として生きていて、自分の立場に疑問を抱かないことにちょっとだけ苛立っていました。「数十年後には在日コリアンはいなくなる」という話、僕が思うに、それは在日コリアンが「なんとなく」日本人と同化してしまうという話もあるにはあるんでしょうが、もうひとつ思うことがあります。おそらく、今までマイノリティとなっていた人たちに対する価値が、現在と逆転する可能性が極めて濃厚であるということです。ニートやひきこもり、リストカッターや童貞など、それが馬鹿にされる対象ではなく、「ああ、俺は童貞になりたい」「なんで僕はニートになるのを怖がったのだろう」という風に、特別な人間へのアクセスキーとして考えられるような傾向を感じます。そしてその考えが拡がり、マイノリティが市民権を得るということは、日本社会の多様化を意味します。
 日本にはシステムの外側の人間には建前で議論し、内側の人間には本音で議論する、という文化がありますが、今までは相互理解不可なものは建前で話す対象だけであった(と決め付けていた)のに対し、本音で話し合うべき対象の中にも、理解不可能な異性人が入り込んでしまっている、という状況があります。ひとつの家庭内でも、お父さんは頑固親父でお母さんは内助の功的役割、そして娘はうつ病で息子はひきこもりといった状況がありえるわけです。日本人自体が多様化してしまい、異質なものが入り組む社会であるのならば、在日というものの特別性も薄まっていきます。
 そういえば、松江監督には「童貞。をプロデュース」という作品もあります。サッカー日本戦に合わせて上映するようなので、見に行くつもり。

 ちなみに、日本におけるロックとは何かを苦悩する「アイデン&ティティ」(著:みうらじゅん)の主人公は、差別や貧困を知らない僕たちがやっているロックは、全然ロックじゃないと考えるに至り、「不幸なことに、ぼくたちには不幸なことがなかったんだ」と叫びます。そのような構造の、倒錯的ともいえる絶望が、彼らのロックとなります。これは今の日本のヒップホップにも言える状況で、スラムのリアルな日常を語れないぼくらのヒップホップは所詮嘘であり、平気で嘘のアブナイ話をリアルとして持ち出すジブラ的えせギャングスタ派か、アメリカに行ってパールハーバーヒロシマを見出すシンゴ2的アイデンティティ探求派か、平凡でなんにもなくて身も蓋もなく平和な日常を語るスチャダラパー的脱力ギャングスタ派かに分かれることになります。