古谷実の「絶望」を経由した「救済」(ヒミズ・そしてシガテラ)

昨日のつづき

ヒミズ 1 (ヤンマガKC)

ヒミズ 1 (ヤンマガKC)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 追記:以下に書かれたことは、今では見解を改めています。ですが、僕の考えの変化を見せるという理由から(ホントはこのエントリが各種検索サイトに引っかかりやすいからという理由からw)、ここに残させていただきます。できることならこれより新しいエントリから先に読んでいただきたいです。(2006年2月22日)
あまりに強烈に絶望的で、それがあの稲中の作者だということで賛否両論わかれた作品、それが「ヒミズ」である。「ヒミズ」で、彼は徹底的に不安が現実になる瞬間を描いた。
平凡な人間でありたい、と願う主人公住田。彼は誰にも迷惑をかけずにひっそりと生きるから、誰からも迷惑をかけられたくない、誰も自分に関わらないで欲しいと心から願うのだが、物語は見事にその願いに反して、絶望的な事件に巻き込まれていく。「普通」というささやかな幸せの片鱗が見えたとき、それは同時に不安を呼び起こす契機でもある。何かうまくいきそうな瞬間、「普通」を味わっていけそうな瞬間に、象徴的に描かれるのが、「バケモノ」である。
思えば、稲中のころから「バケモノ」的な異形の者は描かれてきた。そのころ、「バケモノ」は年寄りとブスとブ男であり、ギャグという共通了解があれば、「バケモノ」は幸せな存在であった。しかし、ヒミズにおいて、まごうことなき直球の「バケモノ」が描かれたことは、笑いと、その裏にある理不尽な不安に恐怖する感情を引き剥がしたことを意味する。
ヒミズギャグマンガが本質的に抱えている、笑いの裏側にある不安だけで描ききってしまった、ついに。

古谷実の尊敬すべきところは、「描ききった」ところである。何か幸せを見いだせそうになると、不安になる。その不安に耐え切れず、自ら期待することを放棄する。つまり絶望である。
絶望とは、第三者によって直接断絶されることではない。不安に耐え切れないで自ら希望を放棄することである。絶望は楽になるための最後の希望でもあるのだ。
ぜひヒミズを読んでもらいたい。最後まできちんと。
古谷実ヒミズで徹底的に不安と戦い、絶望を描ききった。そしてついに、彼は救われる。絶望を経由した希望を自ら勝ち取ったのである。(正直僕はきちんと連載していけるのか心配していたが、きちんと最後まで描いた。本当によく最後まで描いたと思う。)
彼が救われたということは最近(といっても一年ぐらい前になるかな?)連載が終了した、今のところ最新作のシガテラで分かる。
シガテラを描きだした当初、古谷実は自分が救われたことに気づいていなかったかもしれない。しかし、ヒミズと同じく不安の具現化をモチーフにした作品なのに、シガテラにはその先が見える。つまり前向きなのである。
主人公は地味で普通な高校生だが、突然美人な彼女を手に入れる。少しうまく行き過ぎている状況に、彼はとまどう。いつこの幸せが崩れるだろうか、という不安は相変わらず続き、作中では主人公たちのあずかり知らぬところで不幸がにじみよっていたりする。しかしシガテラヒミズと大きく違う点は、多少の危険はあったものの、ついに主人公たちは無事なのである。そして、手に余る幸福にとまどい、自分の周りは次々と不幸になっていくのだ、という妄想に取り付かれながらも、やがて彼は幸福な状況を受け入れる。
 不安にだってなるよ、だけどそんなの分かってるよ
 とにかく僕は彼女をチョー愛している
 彼女と幸せになるのだ

そういう姿勢である。
不安を超えて、幸せになる覚悟を決めたとき、僕はホントに感激した。拍手喝采だった。
絶望は最後の希望である。その希望を見事に勝ち取った結果がシガテラであり、今後の古谷作品である。

個人的に、僕は古谷作品と、時期的にもシンクロしながら似たような変遷をたどってきた。今僕がお付き合いしている女性は、はっきり言って美人で、やさしくて、もーちょー大好きなのである(笑)が、それゆえに僕はいつも不安な時期があった。(シガテラのストーリーより少しだけ早く、僕は不安と幸福を受け入れる準備ができていたため、連載を安心して読むことができた。)彼女のことが大好きで、だからこそ不安で、だけど何があっても彼女と幸せになるんだ(頬赤)と、クサい決意に照れた。だけどそのとき以来、僕は使い古された言葉を使うことに対する照れが薄らいだ。シガテラには、まだまだ照れている主人公とその彼女が描かれていたけど、案外、次回作はそうした照れをなくした純愛モノかもしれない(笑)。