古谷実の「不安」と「照れ」(僕といっしょ・グリーンヒル)

僕といっしょ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

僕といっしょ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

グリーンヒル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

グリーンヒル(1) (ヤンマガKCスペシャル)

昨日と同じことをしても読者は笑わない、というハードルが高くなっていく状況のなか、ギャグマンガ家は(例外的に吉田戦車という鬼っ子を除いて)一様に精神に異常をきたすようだ。最前線にいるギャグマンガ家は先細りの不安に押しつぶされそうになりながらマンガを描いている。古谷実は、そんな状況下で誠実にマンガに向かい、不安を正面から描ききることのできる稀有なクリエイターである。

稲中はある意味古谷作品中最高のギャグマンガであった。これ以降の作品では、彼はギャグの本質にある不安や虚無感を独立させる傾向にある。僕らぐらいの年代にとっては「僕といっしょ」から入ることになるのだが、この作品はギャグを構成する要素である「不安」を、ギャグから引き剥がす部分が多く見受けられる。この作品は、家出少年たちの「心細さ」と「閉塞感」を核にしてギャグを成り立たせている。
当時家出を繰り返していた僕は(まさに僕も中学生!!)、そのような主人公たちの感情がよくわかり、ヒトゴトではなく笑い、不安を感じた。

僕といっしょ」に描かれた「不安」で印象的なのは、主人公先坂すぐ夫の初恋のエピソード「先端恐怖症」である。後に明確化してくる「不安」だが、このころはまだ不安の輪郭が明確になっていない。わけのわからない、抽象的な不安が古谷実の周りに感じられたのであろう。すぐ夫は尖ったものを見ると、額にある第三の目に突き刺さるイメージが受かぶという。すると何か分厚い丈夫なもので額を隠さない限り落ち着かなくなり、学校の先生の三角定規に恐怖したすぐ夫が、教室の柱に額を当てているコマが描かれている。
(ちなみに僕も、紙で黒目の部分を不用意に切ってしまうイメージや黒板に爪を立てるイメージが浮かび、恐怖することがある。今も。)

すぐ夫とイトキン(すぐ夫の家出仲間)は最後、すぐ夫を暴力で追い出した父親に会いにいく。憎むべき父親を追い出し、自分達がそこに居座るのだ、と明るいノリで友人と父親討伐に乗り込むのだが、父親の理不尽な暴力の前に、すぐ夫は泣きじゃくる。そこにはもはやギャグマンガのタッチはどこにも残っていない。ギャグという形でソフィスティケイトされていた不安や閉塞感を、そのまま表出してしまった瞬間である。
結局、すぐ夫達は最後に上野に帰ることを決意し、そのことで読者は彼らがまたギャグマンガの中に戻ることを知って安心するのだが、古谷実自身はこの不安と絶望感をシガテラ執筆までひきずることになる。
「不安」が稲中以降膨れ上がっていく一方で、その次の作品「グリーンヒル」では何事にも無気力な主人公を描き、浮世の喧騒からは自ら距離をおきながら、素直になれない自分の「照れ」がそれまでの古谷作品よりも目立つ。

そもそも、ギャグマンガ家や芸人などというものは、ひねくれて物事を観察する傾向がある。ぼくもそうなのだが、テレビドラマのクサイ台詞に素直に感動できず、ブームに浮き足立つみんなを尻目に「ケッ」などと悪態をつくのである(稲中のときは「死ね死ね団」という形で表現)。しかしあるとき、実は自分は人一倍ロマンチストなのだ、と気づく。本気でそんな台詞が言える気分になれたら最高だろうなと思っている。だからこそ、台本を読み上げるだけの三流役者が、表面的に愛だ恋だと語る姿を、嫌悪する。愛や恋とはそんなものではないのだ、と思うのである。嫌悪しつづける期間が長いと、自分が恋をしたときに、どっかで聞いたことのある台詞を使うことはためらわれるようになる。三流役者やラヴバラードで描かれる気持ちとは違うんだ、という気持ちが強く、自分の言葉で相手に対する愛情を伝えたいのである。それでもどうしても「愛している」とかいう言葉が出てきちゃうとき、頬を赤らめるのである。胡散臭さに照れながら、でも本当なんだと困りながら言う。
グリーンヒル」には、僕のような照れ屋でひねくれた男の子たちの、胡散臭さに気づいているが故の胡散臭くない理想が描かれていた。主人公に恋心を抱いている女のこが、彼に告白しようと、彼の部屋に泊まりに行く。ひとつの布団で主人公は女の子に向かってオナラをする。その、全然ロマンチックでない状況は、僕の恋に恋する気持ちを強めた。あー、こんな恋愛したい、と強く思った。

「照れる」という感情は、常識的な価値観から抜け出そうとする気持ちの表れである。抜け出そうとしながらも、どうしてもそこにとどまってしまう。そのとき、「照れ」が生じるのである。「グリーンヒル」には、出口のない日常と、それを嫌悪し格闘する主人公の様子が描かれている。
ちなみに、出口なき日常と格闘するというのは、社会的な価値観からいえば「ダメ人間」の「逃避行動」である。一般的な価値観に上手く適応できず、そのために苦しい思いをする。これじゃ「ダメ」だという迫害を受け、自分でもそれは分かっている。だけれども、どうする気力も湧かない。
主人公は最後、早く大人になりたいと願う。この出口のない日常に違和感を感じることなく生きていくことを希望する。しかし、それはどこか反実仮想めいた(大人になれたらいいなあ)雰囲気があり、自分がそうなれるかどうかは別問題だ、という態度にもとれる。
つまり、「グリーンヒル」では、閉塞感は最後までぬぐえないまま終わるのである。

このとき、すでに出口のない絶望が現実味を帯びてきていたのだろう。「稲中」から「僕といっしょ」、そして「グリーンヒル」へと、徐々に不安の輪郭が見えてきた古谷実は、ついに「ヒミズ」を執筆する。「ヒミズ」が強烈に絶望的な作品になったのは、自然の流れだと思う。



次回につづく