古谷実による「普通」へのテロ

 ニートという言葉を聞くと、古谷実作品の主人公達を考えてしまいます。
 僕個人としては、ニートという言葉にネガティブなものは何一つ感じません。でも、ニートになったら親は泣くだろうな、とは感じますw。でも実際、頑張るということは良いことなのか?仮にそうだとしても、じゃあ頑張っても結果が出ないものは頑張っても無駄なのか?現行の社会システムの中だけで生活する人はそういう価値観で生きればよいでしょう。しかし、純粋に現行の社会システムを疑わずに生活する人ほど、困った悩みを抱えています。村田マリコ的ダメ人間は社会システムを疑わないからこそ、自己否定を繰り返します。
 「稲中」における「死ね死ね団」という過激派組織は、モテない男のルサンチマンとして描かれますが、しかしそれゆえに現行の社会が抱える問題点・・・つまり「社会は全ての人を包括するという幻想」が、まさしく幻想に過ぎない、ということを示す具体例でもあります。彼らは、社会の万能性を疑わず、困っている人なんていないと思い込んでいる平和な日本の若者に対し、テロを敢行します。古谷実があくまでエンターテインメントで「サブ」カルチャーという立場で叩きつけるのは、911の事件と同様の(しかし無血の)テロ行為です。「持てる国」に対して「持てない国」が自爆テロを行う様子は、前野や井沢が現行の価値観を傾倒させるギャグ精神の持ち主であることとなんら変わりありませんし、「ヒミズ」に至っては、主人公住田は実際に自爆します。
 「普通」という、その中にさえ入っていれば安心できる場所から外れてしまった者は、社会の「平等・分配」精神の恩恵にあずかることもできません。「普通」から外れてしまったら、社会から「特別」という認定を得るしかありません。住田にとっては、「特別」な者は社会に合わせる必要がない存在であるわけですが、それは、社会の問題点を糾弾できるのも「特別」な存在である、ともいえるわけです。「ヒミズ」は、その「特別」の認定を受けるまでの物語でした。「普通」という概念は、現行の社会システムにとっての理想像ですが、その問題点を糾弾しないわけにはいかない住田は、「特別」な人間として自爆テロに至ったわけです。
 こういうことを書くとかなりの反発を受けそうですが、それでも誤解を恐れずに言えば、911自爆テロの実行犯は、大国における被害者と同様の被害者です。大国の目指していたものは既に機能不全を起こしていて、そのほころびに直面せざるを得ない立場に立たされる者は全て被害者だということです。
 そういう意味では、住田のような人間だけでなく、グリーンヒルの関口のような人間やニートも被害者だと言えます。
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