松江哲明「あんにょんキムチ」 

 無自覚なままに日本人に帰化させられ、小さい頃から日本人として生きてきた松江氏が、韓国系日本人という自身の立場を考え出した、というドキュメンタリー作品です。松江氏は、それまで「韓国」をことさら強調して生きてきたわけじゃない模様。韓国系だからといって差別を受けたわけでもないし、キムチもものすごく苦手。でも血として入り込んでいる「韓国」が気になっていたようで、今は亡きおじいさんの人柄を追ったり、親戚に自分の気持ちは韓国人か日本人かを尋ねて回ったり、肩肘張らない取材が続きます。
 ここでひとつ大事なのは、韓国系日本人及び在日韓国人のポジションというのが、日本人から見て異質な存在であるならば、韓国人からしてみても異質な存在なのだということです。松江氏のおじいさんは、日本にやってきた第一世代。ここの人たちは、日本人の誰から見ても立派な日本人であろうとするわけですが、その根底にあるのは韓国を背負っているという自負心。常に韓国人、という目で見られているため、何か人間的に問題があれば、韓国人ってそうなの?という風に思われてしまうわけで、だから彼らはとてもがんばったようです。日本人にとって、建前でなく本音でコミュニケーションできるのは日本人しかいない、ということに、おそらくおじいさんは気付いていたのでしょう。地元の人からの信頼も厚く、選挙権を持たない在日外国人なのに選挙の演説依頼まで受けたというおじいさんは、その一方で、韓国人の知り合いの中では、酔うと韓国語しか話さなかったとか、4人いる娘たちの結婚相手に韓国人以外は認めようとしなかったりとか、そういう「韓国人であること」をとても大切にしていたようです。
 ちなみに娘の一人、つまり松江氏のおばさんの一人はアメリカ人男性と結婚し、自分は何人ですか?という松江氏の質問に、アメリカ人です、と答えています。よくある日本のおバカな勘違いとしては、アメリカ人はアングロサクソン系の人間だ、というものがありますが、アメリカは周知の通り他民族国家で、国籍さえ取得すればだれでもアメリカ人になれます。おばさんの「アメリカ人」発言は、他の韓国系日本人たちに比べ、とても自然なものに映りました。ただ、もう少しアメリカ自体の歴史を踏まえると、それも違って見えてくるのかもしれませんが・・・。
 「キムチ」は松江氏の親戚が集うとき、必ず持参されます。親族の法事はもちろんのこと、お花見や誰かの結婚式など、時と場所を選ばずに持ち歩き、彼らは味わいます。松江氏は、キムチのそんな側面が嫌になったのかもしれません。どこに行っても自分のルーツを自覚するための、ソウルフードとしてのキムチを味わう様子が、閉鎖的に見えたり、意固地になってるように見えたり、とにかく不自然なものに見えるのでしょう。その反動として、彼は「キムチ」がキライなのかな、と思います。キムチ自体、ではなくカッコつきの、キムチとそれを取り巻く環境としての「キムチ」。「キムチ」がキムチになる日は来るのでしょうか。