「愛」についての論考 伊藤整から連なる古谷実の閉塞感

 学校の授業で、伊藤整の文章を読んで驚愕したので、久しぶりにブログを更新します。
 「近代日本における「愛」の虚偽」というタイトルの論考なんですが、「愛」という言葉の不自然さの指摘として、伊藤整が着眼したのはキリスト教的な神の有無でした。
 愛は「自己に対するときのように、他者に為す」という不可能への挑戦です。敢えてそこに近づくために、キリスト教では「神」という唯一で巨大なものを前にします。その前に立てば、隣人は自分と似ることができ、自分と同じ立場にあることができるという論理です。
 これに対し、仏教的な概念においては「慈悲」という言葉があるのですが、伊藤整は、これは人と人の間において生まれる感情であり、そこにはどうしても上下・優劣の意識があるのではないかと言います。そういった意味で、差別を基調にした社会が日本の封建社会として成り立っていたということになります。
 (↑実は、この学校の授業というのは、呉智英先生によるものなんですw)
 さて、伝統的に封建的な意識で成り立っていた私たちの生活に、突如としてキリスト教的な価値観「愛」が輸入されるとどのようなことが起こるのでしょうか。

多分、愛という言葉は、我々には、同情、憐れみ、遠慮、気づかい、というもの、最上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されていないのだ。そして、そのような愛という言葉を、日本人が恋において使い、ヒューマニズムという言葉を、道徳の最終形式のように使うとき、そこには、大きな埋められない空白が残るのだ。

まず、無理やりな言葉の変換が行われるということです。先行する今までの価値観に沿って考えるため、「他者を自己のように愛せ」ということは、「神を前にする」というキリスト教の努力すらなしに表面上の言葉に留まります。
 そして、この後の文章がすごいんですが

この西欧の考え方は、我々を封建制度から解放し、女性を家庭の奴隷状態から解放した。それとともに、我々を別個な虚偽、キリスト教の救済性を持たぬ虚偽の中に導き入れたのだ。

これは、後で書きますがシガテラにおいて古谷実が明示した、絶望→救済→救済された場所も実は絶望、というポスト・モダンな閉塞感の図式です。
 伊藤整のこのテキストは、初出が1958年、神武景気の後の不況がすぐに終わり、岩戸景気が始まるか始まらないかのころです。この2年後には国民所得倍増計画が提出され、日本社会全体が、戦後復興という流れから、経済発展という理想への邁進へ移行することになるわけですが、これがいわゆる「大きな物語」として機能し、共通了解となって社会を成立させていたわけです。
 そういった意味で、この「近代日本における「愛」の虚偽」は、来るべき西欧化=キリスト教化する日本社会への自覚を促すものとして書かれたのかもしれませんが、「キリスト教的神の不在」という問題を、「大きな物語」の喪失と置き換えると、そのまま今日の問題として読むことができます。
 もっと言えば、「大きな物語」をキリスト教的な神(イデア)として読み取っていただけに、伊藤整の「神の不在」の指摘は、当時はあまり理解されなかったか、あるいは当時は理解されたんだけど、その後の経済成長への夢と実現によって忘却されてしまったのではないか、という可能性を考えてしまいます。そして、今になってやっと真正面から考えられるときが来たのかな、と思います。(まあ、これは呉先生から「間違ってるけど面白い」と言われたんだけれどもw、でも僕にはまだ間違ってるとは思えないので、このまま書かせていただきます。)
 さて、古谷実作品の主人公たちは、この「愛」というものに懐疑的です。伊藤整の文章を読んだ後だと、それが上のような変遷を経た言葉だからだ、と分かります。仏教的価値観とキリスト教的価値観があったときに、キリスト教的価値観の方が魅力的に映ります。やはり、孤独よりも他者と解りあえる方が端から見ると良く映ります。しかし、そうやって「愛」に魅力を感じているんだけれども、どういうわけか素直に享受できない、という繊細で鋭敏な感覚を持ち合わせている彼らは、近づきたくても近づけない他者を感じています。
 伊藤整によれば、仏教は「社会を離れ、隠遁し、孤独になるときに心の平安を得る」という特徴を持ち、「他者との結びつきには我々を不安にするものが常にある」といいます。これは(僕もだけれど)、古谷作品の主人公たちに一貫して見られる性格そのものです。
 稲中13巻キクちゃんのエピソードについては以前言及しましたが(→参照)、これの続編がそれぞれヒミズシガテラになっていると思います。これらは、「愛」に懐疑的な主人公たちが「愛」に出会ってしまってどうするか、という状態が描かれています。ヒミズの住田は、最初の「誰にも迷惑をかけないから、頼むからほっといてくれ」という状況から、二転三転して、最後にまた「孤独の境地」に帰ります。シガテラの荻野くんは、他者と解りあうことをやがて諦め、絶望のなか「そういうものだ」と生きていく決心をします。
 キリスト教的価値観が流入した仏教国に生きる私たちが、敢えて在来の価値観を実践しようとすれば、ヒミズのような結末を迎えることしかできず、近代的な価値観を求めて生きようとするならば、シガテラのように全て解った上で、自覚的に演じなければならないのではないでしょうか。

近代日本人の発想の諸形式 他4篇
伊藤 整
岩波書店
売り上げランキング: 98,358