不安を内包することができる社会を。

・西欧近代と「江戸近代」

 僕(←呉智英さんの著作に賛同することが多い)は、封建社会を成功させていた江戸社会は、西欧近代と対照的に、「江戸近代」と呼んだっていいんじゃないかと思っている。産業革命が始まるころのロンドンと人口多い都市だったってのは、単純に見て社会としての成功と読んでもいい。
 論語では、「己の欲せざる所、人に為すなかれ」という「消極的な他者への施し」を主張する。キリスト教は、ある意味ではおせっかいでもあるくらい、「積極的な他者への施し」を基調とする。前者は「慈悲」であり、後者は「愛」である。
 江戸近代は差別を基調とし、被差別者も、それを仕方のないことと受容していた。なぜ受容できるのかというと、差別を受けるものは、ある場面では特殊能力の持ち主だとされ、奇異な目で見られることを「畏怖」と置き換えていた。そういう形で、最下層として生きる人には、社会の側から見れば下なんだけど、実は「自然」(≒軽量不可能な世界)にもっとも近い人、という感覚があった。自然は不条理で理不尽な世界で、人間の都合を考えて動かない。だからこそ、社会の不安要素でもありうる。
 これに対し西欧近代は、全ての人は神の下に平等である。そのため、どんな人間をも神は見捨てない。イエスは、伝染病の患者(社会の外に疎外された人)に触れ、その病を癒し、苦しみを解き放した。それは、今まで「仕方がない」と諦めていた人に、新しく希望を(「命」を)与えなおすことになる。それは、社会の拡大を意味する。
 社会の中にある「不安」は、自然のことを指す。西欧近代化とは、不安を社会から遠ざけることだといえる。
 近代化における社会のまとまり方は、人々に共通の理想を植え付け、それの実現に精進することで、人々は満足を得られるという仕組みを持っている(←「大きな物語」と呼ばれるもののこと)。コンサートホールや美術館の出現もこの頃。それらは非日常として、日常が退屈なルーティンワークであればあるほど輝きを増し、その退屈な日常こそが非日常の世界を実現させる礎になる、という認識が、更に日常へ帰る際の原動力となる。
 しかし、「大きな物語」が崩壊、もしくは「共通の理想」がある意味で実現されると、社会のまとまり自体が弱体化することになる。

・不安の内包

 こうなると、飽食の時代に「不安」が蔓延する。不安から逃れることを目指した西欧近代に慣れ親しんだ私たちは、不安に対し、見て見ぬフリをするか、不感症になるか、怯えて部屋に篭るかを迫られる。それと、もう一つの手として、不安を内包するというのがある。
 古谷実作品『グリーンヒル』のリーダーはそこにたどり着く。ブサイク・ハゲ・デブ・いじけてる、というリーダーはその自らの不遇(彼に関しては、資産家の長男だ、ということも「普通」から遠ざかる悲しい事実になってしまう)に対し、「もーしょーがない」という境地にたどり着く。
 『シガテラ』も別の角度から「不安の内包」を決意する。主人公の高校生、荻野くんは少しだけ不幸かもしれないけど、まあまあな境遇(一人の同級生からいじめられ、バイクに乗ることに喜びを見出す毎日)にある。しかし、突然そこに、美人で頭も性格も良く、しかも荻野くんのことが好きでたまらない彼女、という「とんでもない幸福」が訪れる。それに浮かれているのもつかの間、彼は「彼女との幸福がいつ壊れるか」という不安と隣合わせで生きることになる。作品では、「主人公たちのすぐ隣にある不幸」を客観的に読者の視点から見ることで、不安が見事に可視化されている。
 荻野はついに、不安に耐えかねて、彼女に別れを切り出し、その後「不幸になる直前までがんばる!!」という結論に到る。いつか不幸がやってくるかも、という不安はあるが、今はとりあえずそうではない。だから不幸になるその直前まで、彼女を幸せにすることを決意する。不安を内包することに成功する。
 これが江戸時代のような自然観(≒仏教観?)であることに相違はないだろうが、キリスト教的なものでもある。西欧近代の形にゆがめられる前のキリスト教である。
 
かきかけです