「真実」の絶対性を信じ、やがて「真実」の必要性に陥るシガテラ


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訳あって発表ができなかったので、その際の原稿をアップします。
元ネタとして、宮台真司さんのblogをご参照ください→http://www.miyadai.com/index.php?itemid=357
「あるはずのないもの」を「あるかのように振舞う」のは、「ここではないどこか」の真偽よりも、とりあえず向かう、という志向性を重視していることです。
できましたら、批判等お願いします
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 レジュメに「あるはずのないもの」を「あるかのようにふるまう」ことで成立する今日の社会、とありますが、これは一体なんなのかという説明からしたいと思います。
 今日の私たちの社会は、個人が共通の理想を抱き、志向することを前提に成り立っている、とされています。犯罪のない社会だとか、医療の発達だとか、自然の統制化だとか、私たちが「よりよく」、幸せに生きていくために、みんなが思い浮かべるような「幸せの形」として「理想」を設定してきたわけです。現実としての社会は、その理想に向かって邁進することで充実感を得る、という風に考えてきました。
「理想」というものを絶対視して、真実だとしていました。だから、その「理想」に照らし合わせて、絶対正しいことや絶対間違っていることというのは存在できたわけです。
 ところが、どうもこの手法では、社会は大変な機能不全を起こすようだ、と気づいた瞬間から、「理想」を志向するモチベーションは失われていきます。機能不全というのは、まあ環境破壊でもいいですし、安全神話の崩壊とかでもいいんですけど、とにかく、毎日努力してればきっと報われるんだ、とか、こうしてれば絶対安全なんだ、みたいな気持ちをそいでしまう、論理の外にある力が見え隠れしてきます。余談ですが、最近の血液型性格判断とか、スピリチュアルブームの興隆ってのもこの流れだと思います。まあとにかく、こうした中では、理想は、あくまでも現実とは無関係に存在している理想でしかなくて、個人的な欲求を最上位において行動するやつも出てくるわけです。道徳観の欠如とか、日常の不全感といったことも最近叫ばれたりします。
 異論は多々あるかも知れませんが、とりあえずここではこういう風に了解していただきたいです。今日の私たちは、根本的に社会構造そのものを見直さなければならない、というところにきているわけですが、まだどうすればよいかの決定はなく、今までの手法が継続しているってことです。それが、レジュメの「あるはずのないもの」を「あるかのようにふるまう」ことで成立する今日の社会ってことになります。

 古谷実作品の主人公たちは、こうした不自然さにとても敏感で、神経質なくらい真面目です。まあこれは「真実」がどこかに必ずあるはずだ、という「理想」を信じているからこその態度ではあるんですが、とにかく、こうした偽物っぽいものを信じてる人たちが許せないんですね。
 ここで、図版の方を見ていただきたいんですが、これは前回の発表の題材だった稲中からです。
 このパンツ一丁の男の子は井沢くんといって、主人公コンビの片割れなんですが、ドミノ倒しイベントで感動するっていう、偽者を信じる人たちが嫌で、邪魔しに行くんですね。そして捕まった、という場面です。

男(ブサイク) 「どうしてこんな事をするんだい みんな一生懸命やっているのに」
井沢(ブサイク)「・・・・お前ら成功したら泣くだろ」
        「泣くぐらい大変でやらなくていい事なら やるな!」
女達(ブサイク)「ちっ違うわよ こんな大変なことをみんなでやるから感動するの!」
        「すてきな思い出ができるじゃなーい」「そーよそーよー」
井沢(泣き怒り)「じゃあドミノなんてするな!ゴミをひろえゴミを!!」
みんな     「なんでみんなでゴミひろわなきゃなんないのよ!」
        「もういいよ バカはほっとこ 」
井沢      「お前らそんなムリに感動しちゃいかんぞー」
        「オナニーしてるみたいで気持ち悪いぞー」
行け!稲中卓球部 13巻

 面白いのは、突っ込む側の方が、弱いというところです。ここだけ見ると、井沢の論理の方が正しいように思えます。ですが、やっぱり無理やりこうして「みんなでがんばること」「正しいこと」というのを捏造すると、こういうモロイ形がバレバレです。井沢は、社会から疎外され、孤独になってしまいます。
 たとえ理想が「あるはずのないもの」であっても、私たちはいまだにそれを信じて社会を形成する以外の方法を知りません。だから、井沢くんがそれは「偽物だ」と糾弾しても、それが偽者だろうとなかろうと、糾弾した人が社会から疎外され、孤独感を味わう他ないわけです。

 こうした孤独感を埋めるための方法として、ひとつは前回の発表でテーマにした「自意識」というのがあります。「みんながバカで、実は俺はすごいんだ」と思い込んで、自分自身を肯定するってやつです。
 もうひとつは、あくまでも絶対と思える真実を見つけ、社会に参入するという方法です。シガテラにおいては、幸か不幸かこの「真実」と思えるものに荻野くんはめぐり合います。
 前回は稲中から、前野と、ブスだけどすごい性格がいい女の子キクちゃんを「自意識」の側面から話しましたが、今回は、シガテラという作品から、荻野くんという主人公の高校生と、美人で性格もいい南雲さんが、恋人関係にある、ということから見ていきたいと思います。
 一応荻野くんはごく普通の高校生ということになっていますが、やっぱり読み込んでいくと、古谷作品の主人公たちにおなじみの、ある種の孤独を抱えています。
 バイクの教習所で知り合った女の子から告白されて、付き合い始めるわけですが、やっぱり恋愛関係になると、自我を侵食し合って、お互いをかけがえのない存在だと思うようになります。つまり「この気持ちは偽物じゃない、真実なんだ」と思うわけです。
 図版を見てください。

「愛」という言葉しかないので愛してるとしか言えないが・・・・
もっと強烈な言葉が生まれるのを待ち望んでるほど好きだ・・・・ 
シガテラ6巻

「愛してる」という手垢のついた言葉は、なんだか重みが感じられないわけですが、そのまま使用せずに、こうして前置きをすることによって、世間一般の「愛」との差別化を図るわけです。世間のヤツラは「あるはずもないもの」を信じて軽々しく「愛」を乱発させているけれども、そうした「偽物」ではなくて、これは間違いない感情なんだ、ということを主張しています。

 さて、こうして「真実」を手に入れた荻野くんは、めでたく社会に入ればいいわけですけれども、みんながみんな荻野くんみたいに「真実」を知っているわけではなく、個人的な欲求やらなんやらを最上位において生きている人も多く存在します(私見を挟みますと、好きになっちゃったものはしょうがない、といってほいほい浮気してしまう人もいますが、これも結局自分の欲求の正当化でしかないと思います)。そうした人がはびこる、危険な社会の中で、せっかく得た「真実」が失われてしまうんじゃないか、という「不安」が、実はシガテラのテーマです。
 シガテラというのは聞きなれない言葉ですけれども、食中毒の一種で、微生物に含まれる毒素(シガトキシン)が、食物連鎖の過程で自然凝縮され、やがては人間に感染する可能性があるそうです。つまり、荻野くんが、いつか訪れるかもしれない「不幸」に怯える、ということを暗に示唆しています。
 ここで大事なのは、荻野くんは自分自身に起こる危険よりも、南雲さんに訪れる危険の方が怖い、ということです。南雲さんという「真実」「絶対」がなくなるのは耐えられないわけです。

 理想に向かって突っ走ってる社会は、不安をその外側に遠ざけるようにしてきました。不安のない社会が「理想」ということです。その理想が「あるはずのないもの」となってしまったならば、私たちは、個々別々に何か別の形で不安に対応する必要があります。
 まず、1.不安の元凶そのものを消す、という方法です。
 荻野くんは、自分を「不幸の元」と思い込み、南雲さんをそれに巻き込んでしまうのではないか、という不安から別れることを考えます(→シガテラ6巻)。
 元々荻野くんは変なやつにいじめられていて、南雲さんみたいな「幸せ」があるのは、いじめられる「不幸」の時間があるからで、プラマイゼロでバランスが取れている、みたいに考えていました。ところが、あるとき突然いじめが止むと、そのバランスが崩れ、幸せだけの毎日を不自然に思うようになります。いつかとてつもない不幸が現れるんじゃないか、という「不安」が大きくなっていきます。
 これは自意識の問題なんですけれども、こうした不安を抑えるためには、自分からその「幸せ」を手放せばよいという結論が出ます。
 前作ヒミズはこの時点にとどまりますが、シガテラはもう一歩進むことになります。
 
 次に、2.不安を内包する、という段階にいたります。
 荻野くんは南雲さんに別れらしきものを切り出した後、ひとりで考え込み、ある結論を導きます。

死ぬほど好きな人を・・・・・・・・幸せにできるかどうか?
(中略)
わかった!!!答えは「不幸になるまで がんばる」!!! だ!!!
そりゃそうさ!!がんばるさ!!だって死んでしまうからね!!!
OK南雲さん!!不幸が訪れる寸前まで僕は!!
君を超幸せにするぜえええええええ!!!

死ぬほど好きなら、じゃあもう決まっている。だったら前に進めばいいだけの話、という結論です。不安を内包したまま生きていく覚悟を決めることです。
 こうした覚悟をしながら、荻野くんはやがて大人へと向かうんですが、図版を見てください。荻野くんの論理の総括です。
 夜、荻野くんが見た夢なんですが、男か女かもわからない人がクスクス笑いながら、寝ている荻野くんをふすまから見ています。この人は不安の表象なんだと思います。

ふふふ・・・本当にこのままうまく行くと思ってる?
君は間違いなく不幸のかたまりなんだよ?
――わかってるよ
あの子を不幸にするかもよ?
――わかってるよ その時は別れる
そんな事できるの?
――できるよ・・・・・・・・彼女のタメなら何でもできる
死ねる?(ふすまの隙間が小さくなっていく)
――死ねる 親には悪いけど
夢だからって適当な事言ってるんじゃないの?
――適当じゃないんだよ・・・・・・だからまいってんだ・・・・・・
(ふすまが完全に閉まる)
シガテラ6巻

 これは、「真実」である南雲さんを中心に生きていく決意のように見えます。「真実」を・「絶対」を信じて生きていける荻野くんの今後の姿勢を見るようです。
 しかし、彼女といると「真実」に触れ合っているような気がするわけですが、実はただ、南雲さん志向する対象にしているだけなのではないだろうか、という疑いがあるわけです。もし南雲さん以外の女の子だったらこういう風には思わないのだろうか。思わないかもしれないし、思うかもしれない。それはわからない。南雲さん自身は代替可能性があって、実はそこにある程度の基準をクリアしている人なら誰でも当てはまるのではないか、という疑問が実はあるわけです。
 しかし、荻野くんはそれをあえて考えようとはしません。大事なのはそれが「真実」かという議論ではなく、「志向性」なのです。「真実だ」「絶対だ」と自己暗示かけ、献身的に愛を注ぐことは、突き詰めていけば利己的な姿勢に見えてきます。不安を見ない代わりに「真実」の絶対性を求めない。不安に対し、3.不安という事実をなかったことにする、という態度をとるに至るわけです。
 シガテラの最終話は、彼女=「真実」の代替可能性を示して終わります。結局「あるはずもないもの」を「あるかのように」振舞う、ドミノ倒しのブス側に立つ荻野くんを描きます。「おそらく、これは真実ではない」が、そういう疑惑を残しながらも、あえて「これが真実であるかのように」振舞う。それが社会に出る入ることだ、という感覚です。「真実」は絶対的なものでなく、必要とされるものなのです。