スチャダラの到達した「静かな絶望」に対する「諦念の境地」

 この曲を久しぶりに聞いたら、実はとてつもない諦めの境地を語っていることに気づいてしまった。
 
 スチャダラパー『彼方からの手紙』

 そもそも人種差別体験を元に「自分たち」を歌うことでアイデンティティを確立してきたヒップホップは、アメリカのヒスパニック系やアフリカ系に歌われてこそ意味のある音楽だった。 差別を乗り越えるには、誰がどう見てもかっこよく、新しく、驚かれなければならない。差別する側が思わず拍手をしてしまう状況を作り出すことが不可欠であった。 だから、彼らは頭でぐるぐる回転しなければならなかったし、レコードをスクラッチしなければならなかったし、独特の絵画表現が必要だった。その斬新さは差別という社会の問題を軽々飛び越え、国境を越え、世界中で享受されることになった。
 ヒップホップは、理不尽な差別という、目に見える「絶望」を出発点とする。それに対処するために「自分」を自分たちで定義しなおすという方法を取ってきた。それに対して、日本のヒップホップは状況が異なる。「不幸なことに、僕たちには『不幸なこと』がなかった」というのはみうらじゅんの言葉だけれども、ヒップホップをやりたくても、僕たちには目に見える「絶望」がなく、まさにそれこそがヒップホップができない絶望だった。
 もっと言えば、これは毎日を生きていく上で「目標」とすべき、「希望」も「絶望」もないことにもつながる。現在の日本の絶望は、いってみてば「静かな絶望」なのである。

 『彼方からの手紙』は、日本の「リアル」の不在を誠実に語ってきたスチャダラパーの、一種の結論ではないだろうか。

 『彼方からの手紙』の歌詞。“川って海につながってんでしょ”と思い、それを確かめようと思い立つ。けどめんどくさくなって、今度は“川のはじまりってさあ”と思い、やっぱり向かう途中でお腹が減って、もうどうでもよくなる。
 海という「未来」や、川の源という「アイデンティティ」を夢見ても、それはもう結局僕らとは関係がないのである。そんな目的がなくたって適当に生きていけるし、そもそも目標に向かうだけのモチベーションを保てない。「そっちじゃ考えられないだろうけどさ」と、この状況を嘆く。

 しかし『彼方からの手紙』はさらに言う。“案外、桃源郷ユートピア)ってここのことかなって思った”。
 全てを諦め、目的さえ持たなければ、そこには幸せも不幸もない。 元々のヒップホップは、ストリートという悪い場所から抜け出し、メイクマネーして富を掴む「ゴール」を設定している(彼らがスターになってもストリートを大切にするのは、結果的に「絶望」という生きるための「目標」に感謝しているからに他ならない)。そこには明確な幸せと不幸の線引きがある。しかし、既に様々なものを与えられている私たちは、実は「夢や希望」などの目標を持たなくても生きていける。むしろそうしたぬるま湯の環境にいたからこそ、夢や希望を持つことが、幸せと同時に不幸を作る、ということに気が付くことが出来る。

 スチャダラパーからのヒップホップに対する答えである。 全てを諦めれば、幸/不幸は後付けの価値観に過ぎない。“澄んだ空気”“青い空”のすばらしさに注目しながら、この日常を生きる。“早くこっちにおいでよ”と『彼方』から声がする。


瀬田なつき監督作品『彼方からの手紙』所収