あらためてヒミズを読み返す

 古谷実作品の主人公には、自意識過剰という大きな特徴があります。しかし連載中の『わにとかげぎす』では、主人公富岡君の自意識が薄くなってきています。冒頭部分には少しだけ「呪い」なる自意識が見え隠れする場面がありますが、設定が32歳ということもあるのか、孤独から逃げるという消極的(かどうかは不明だけれども)な理由だからか、大きく自意識過剰な場面が強調されていません。
 今後読み解いていくためにも、おそらく『わにとかげぎす』の前身である『ヒミズ』から古谷作品における自意識を考えてみようと思います。

 『ヒミズ』の主人公住田は中学生の男子。めったに帰らない父親は無職のろくでなしで、家は川沿いの掘っ立て小屋。つまり彼はどちらかというと恵まれない方の家庭環境にあるわけです。
 しかし、自意識の強い住田に言わせれば、「こんなのありきたりの不幸話」としています。「自分は特別(不幸)」と思うような奢った考えを嫌悪しているからです。これが古谷作品の主人公たちの自意識そのものなんですが、「本当の自分」とか言っちゃうやつを嫌悪しつつも、実は自分の中にも「実は俺って特別なんじゃね??」という期待があることを知っており、そのためヒミズにおいては過剰に「普通」であろうという姿勢を持ちます。
 そうした願望から、「自分は普通」と言い聞かせ、誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと暮らしたいという夢ともいえない夢を持っています。
 しかし、母親が住田を置いて男と逃げ、まったく一人になった住田は、唐突にやってきた父親を衝動的に殺害します。これは、住田が今まで自分の中で抑えつけていた「こんなはずじゃなかった」「俺はホントはもっと・・・」という自意識が噴出した瞬間であったように思えます。「こいつさえいなければ」と他人のせいにすることは、現状を認められない「本当の自分」とか言ってるやつと違いがないわけです。
 こうして嫌悪していた自分の中の自意識が噴出してしまってから、彼はその自意識をどう扱うか考え始めます。「もしかしたら自分は本物かもしれない」という自意識をとりあえず認め、一年間の猶予期間を設けます。もし自分が本物であれば、その一年の間に悪い奴をみつけることができ、自分の手で殺せるはず、というものです。「運命」に本物かどうかを託すということです。
 つまり、「悪いヤツ」というのは自分が遭遇しうる「真実」だったのだと思います。

 <この文章はかきかけです>