「友達が欲しい・・・」 『わにとかげぎす』の孤独を考え中

 文化系トークラジオLifeの今週のテーマが「友達」(→http://www.tbsradio.jp/life/20070422/)ということで、『わにとかげぎす』の主人公富岡君が友達を求めるゆえんを探るためにも、今回は必聴。
 孤独を恐れていた『稲中』『僕といっしょ』『グリーンヒル』から、『ヒミズ』という限界を経て、『シガテラ』で孤独を受け入れていったように思うんですが、また古谷実は孤独を恐れる人間を描き始めました。孤独の気楽さや良さを享受していた32歳の主人公富岡君は、ある日突然「孤独に死の影すら見るようになってしまった」ということです。
 一段落つけたハズの「孤独」をもう一度テーマにする、というのはどういうことなんだろう・・・??
 しかも今回は今までとは趣きが違っています。これまでは、嘘臭いセリフを臆面も無く話すヤツをシニカルに笑い飛ばす一方、実は心の奥底では濃厚な「真実」への情熱が煮えたぎっていたわけで、そこには克服するに積極的な理由、つまり「僕をわかってくれる人」を探し出すという動機があったように思えます。しかし、『わにとかげぎす』では、孤独を克服しようとしたのには何か目的があるからではなく、その孤独自体が耐え難いものになっていたからです。
 だから、どんな友達が欲しいとかってのがあまり明確に見えてきません。途中、「人生を語り合うような友達」と言ったり「古代ローマ人の行き先を気にする友達」とかって言ったりしてますが、稲中の前野や井沢が、僕といっしょのすぐ起が、グリーンヒルのリーダーが、求めていたものとは大きく異なるようです。
 彼らが求めていたのは、「恋人」でした。これまで古谷作品において、「孤独」は克服されるべきものであったため、対概念としては孤独を根こそぎ抜き去るようなもの、すべてをさらけだし、すべてを分かり合う可能性を持った「恋人」が提示されていました。
 『シガテラ』の結論が、「すべてを分かり合える真実の存在はない」というものだったとすれば、『わにとかげぎす』はそんな大それたものを掲げて孤独を「克服」するのではなく、「友達」という曖昧なものを通して孤独から「脱出」しようとしているのだと思います。
 「孤独」がテーマであるのに変わりはありませんが、孤独に対するアプローチが「恋人」(すべてを分かり合うための存在)から、「友達」(どんな存在ですか??この括弧の中を埋めたい・・・)へと移行しています。

 そういえば以前、Life出演者の柳瀬博一さんが「大人になること」の回でこんなことを言っていました。ポッドキャストhttp://podcast.tbsradio.jp/life/files/20070226_7.mp3。19分10秒あたりから。
 毎年一人旅をしていた柳瀬さんが、あるとき一人でいる時間を退屈に感じてしまった瞬間、というのはなんだったのだろう、と気になります。
 今回の放送や外伝(ポッドキャストのみ配信の番組番外編。一時間有り)で触れてくれたらな、とメールを送っておきましたが、あまり古谷実に特化した内容なので扱ってくれるのだろうか・・・w