「不安」⇒「絶望」⇒その外へ 〜ドラゴンヘッドの闇と傷頭〜

 古谷実氏の尊敬する望月峯太郎氏の超名作、ドラゴンヘッドをこの間読み返していました。やっぱりいつ読んでもこの閉塞感はものすごいです。トンネルを出た後でも、息苦しい闇は続きます。
 あ、これ以降ネタバレするかもしれませんが、未読の方、あしからず。
 ドラゴンヘッドの闇はいろいろいわれそうだけれど、とりあえずここで古谷実作品とつなげていうなら、ヒミズの「バケモノ」やグリーンヒルの「めんどくさい」などと共通していると思います。テルやノブオがトンネルの中で感じる闇は、ある意味まだ「自分の心に巣食う闇」みたいな見方もできると思うんですが、富士山であったとおぼしき場所に開いた巨大な穴(「深淵」)にヘリで降下していくとき、「自分の心」などとは全く別の次元にある、とにかく途方もない、そして「元からそこにある闇」を目撃するわけです(ヒミズで直面した「決まっているんだ」とはまさにこのことではないのでしょうか)。
 最終巻辺りになると、「巨大な闇は自分の心の中にあった」とかってテルは思うんですが、それはテルと、おそらくは望月峯太郎氏の無意識的な勘違いで、ドラゴンヘッドで一番恐ろしい・・・というか、まだ名前のついていない感情を強烈に叩き起こされるのは、7巻の「深淵」だと思います。
 ドラゴンヘッドには、「傷頭」と呼ばれているロボトミーが登場します。彼らはもともとは恐怖に対して非常に敏感な者たちで、まあ多分強迫神経症とかそんな病名で精神科に通院・入院していたんでしょうが、災害の時のドサクサにまぎれて、脳の恐怖に関係する部位、海馬と偏頭体を摘出してしまいます。そのため彼らには恐怖の感覚はなく、それは同時に「生の実感」すらないというのがドラゴンヘッドの話題の中心になっていきます。東京に突如として現れた富士の噴火(龍が立ち昇るように見える)は、彼らの失われた海馬(タツノオトシゴの意味もある)の象徴でもあり、麻痺させられた恐怖のルネサンスが始まる、といったところで物語は終わります。(ちなみに「傷頭」のモデルはおそらく諸星大二郎「蒼い群れ」に出てくる、施設の外を知らない車椅子の少年だと思うんですが、是非ご参照ください。「ぼくとフリオと校庭で」収録。)
 耐え切れないほどの不安や恐怖は、私たちの「生」を脅かし、押しつぶすこともあります。ドラゴンヘッドに関する言説で巷に溢れるのは、私たちが充実した「生」を体感するためには、不安や恐怖は遠ざけすぎてはいけない、というものですが、確かにそういうことはドラゴンヘッドでも語られているんですが、そんな分かりきったことだけを読み取ってしまうと、途端にこの作品がつまらなくなります。
 そもそも、不安から来る恐怖と、絶望から来る恐怖は別です。ここで再び「深淵」に戻ります。富士山のあるべき場所に開いた大きな闇の中に下降していったとき、噴火口の巨大過ぎる闇に四人は恐怖し、耐え切れなくなって上昇します。それは、そこに「何かがいるかもしれない」という不安ではなくて、そこに「全く何も無い」という絶望があったから恐怖したのではないでしょうか。
 わにとかげぎすの連載開始時のコピーは、「深淵(アビス)から浮上せよ」でした。ヒミズシガテラで「不安」と、そして「絶望」を描いた後、その「絶望」=「深淵」から浮上しようとする人々を描くわけです。物語の初め、主人公の富岡ゆうじ君の葛藤がとても面白いです。外の世界には不安がいっぱいあるから、自分はできるだけ人と触れ合わない生活を実践しています。ところが、自ら望んだ「孤独」に、彼は耐え切れなくなります。「孤独」は、紛れもない絶望のことです。「何かがいるかもしれない」という不安を避け続けるためには、「全く何もない」場所に身を置くしかないのですが、その絶望にすら恐怖してしまい、仕方なく不安のはびこる外の世界に出て行く、という経緯を辿ります。
 実は、これはシガテラで荻野くんが経験していることで、荻野くんは絶望と共存し、不安を麻痺させる道を選びました。ドラゴンヘッドのノブオと同じです(「闇と仲良くするしかない」)。わにとかげぎすでは、富岡君及びその仲間たちがどのような道を発見していくのでしょうか。