「わにとかげぎす」第5話:フレッシュなのを求む

 前回の書きかけの続きからはじめます。(後日加筆予定)
 カミというのは人間のコントロールのきかない部分、つまり人智を超えたものです。だから、人間の利益などとは全く無関係に存在しています。カミは自然現象ばかりを指すのではなく、人間の内側に存在するコントロール不可能な衝動をも指します。興奮が最高潮に達してトランス状態になっているのは、カミが憑依しているわけだし、セックスも祭事と密接な関わりを持っていたわけです。
 では、神というのはなんでしょうか。僕は、これはカミを方便として利用した際の呼び名だと思っています。社会にとって必要な倫理・道徳を感情の昂ぶり(=カミ)で補強しようとしたとき、カミは神と呼ばれます。悪魔も神も、意識の及ばないという点では共通してカミです。
 カミは、確かにそれ自体は意識の及ばないところにあり、人間がどうにかできるものではありません。が、人間の生活する空間(日常/ケ)とカミの住む空間(非日常/ハレ)を分けることで、人間はカミの運営が可能になります。さまざまな社会でそれが試みられましたが、中でも強力だったのが西欧近代社会と呼ばれるものです。カミと人間の分離を徹底的に推し進め、非日常を日常が飼いならすことに成功します。例えば退屈なルーティンワークを毎日過ごす代わりに、余暇にはコンサートホールに向かいます。そこは非日常的な美にあふれる空間で、日々の生活が退屈であればあるほど輝いて見えるものです。そして、そこで演奏される演目は、カミのスゴい部分を神として現出していて、現実世界のお手本となるべきものとしました。それを体験することによって、「つまらない日々の仕事はすばらしい美の世界を現出させる礎」という認識を作り、個人を強くモチベートさせていきます。
 こうした状況では、カミの神でない部分は社会から隠蔽あるいは追放される形になります。こないだ公開していた映画でエミリーローズという悪魔裁判の話があります。恐ろしい事件をおこした女性エミリーローズの常軌を逸した行動しぐさは、果たして病気だったのか、それとも悪魔に憑かれていたのか?という話なんですが、言い換えれば、病気という形で社会は容認しながら隠蔽するのか、それとも悪魔が憑いたという形で社会から追放するのか、ということです。どちらにせよカミは疎外(=本来の姿でなくなる)されている、ということです。
 カミと人間の未分化の状況から、カミと人間の完全な区画整備が行われ、人智を超えたすごいものは神として触れるという社会が現れる。これが近代と呼ばれる状況です。近代化、つまり科学技術が発達すると、目指していた理想の世界が本当に実現可能なところまで到達します。すると今度は、神としての強度が急速に落ちていきます。圧倒的な美として非日常の空間に閉じ込められていたものは薄められながら広がっていき、「心地良い」という呼称を得ます。また目的主義に裏打ちされた感動というのにはドラマがあり、順を追って展開されるものは先が見えてしまうと強度が落ちます(個人的には異論がありますが、強度が落ちるのは事実でしょう)。ストーリーは意識化されやすいという特徴があります。神として強度を保っていたものはカミに戻り、またさまざまなところで人間の利益に関係なく人間の社会に溶け込みはじめています。
 さて、ここで古谷実を考えます。ヒミズの住田くんは神に対しては否定的ですが、倫理や道徳というものを強く持っています。彼には神ではなく、不安の立像としてのバケモノが見えます。彼は、神という概念はただの方便でしかなく、神も恋愛もバケモノも、意志の力でよけることができると考えている。ようするに、人智を超えたカミというものは確かにあるんだけど、それは触れようと思えばいつでも触れられるし、無視しようと思えば無視できるわけです。
 今週のヤンマガ登場の、わにとかげぎすのおじさんもそういう立場です。不安を遠くでおとなしくさせるには、現実を見ない、ということにつきます。富岡ゆうじ君は自らの意志で友達を望みます。彼らは神の力で社会を成り立たせようとはせず、個人の意志の力によって社会は保たれるべきだ、という思想を持っているのでしょう。見返りを求めないが、しかし他者の尊厳も保つ、という。それは社会の恩恵を受けてきた者にはわからない、希望の欠如が前提になっています。

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