いずれ書く『僕といっしょ』感想文のための一言&その他

 「孤独」を意識せざるを得なくなってしまうような「運命」によって、積極的に何かを「希望」したり「信仰」することを恐れ、だったら自分が「希望」「信仰」の対象になることを願い、しかし「孤独」であるがゆえの全能感をも捨て去る気概もない・・・。
 『僕といっしょ』を読むと、そんな醜悪で無様に悩むことが、実はとてつもなく美しく誠実な姿勢に見えてしまう。

 あと、古谷実には主人公とその母親の物語を書いて欲しい。
 だいぶ昔にいただいたトラックバックを今頃になって返すことになってしまったけれど、こちら(→http://d.hatena.ne.jp/nanari/20060829)に書かれた、id:nanariさんによる『わにとかげぎす』に関する短い文章を引用する。

それと、古谷の描く「悪い人」の怖さは、やはり天下一品だと思った。あの義眼の借金取りの怖さは、なんだろう。誰かが真剣に喋っているのに、彼らはまったく関係ないことを喋ったりする。この、世界に対する絶対的な無関心さが恐怖をあおる。

この恐怖って、『グリーンヒル』3巻で浮気がバレた伊藤(イトキン)におかしな整形手術を強いる妻よしえの姿にも見出せると思う。 

伊藤 :うわあああああごめんなさい!
    もうしません
    もうしませんから〜〜〜〜〜〜
よしえ:ホラ急いでパパ
    先に銀行でお金おろさなきゃ

 これ、盲目的になった母親の恐ろしさにも見えるんだよなあ・・・。
 なんというか、母親にとって、子供の成長=生きがいっていうのは一般的にあると思うんだけれど、それが過剰に行われたときってかなり怖かったりする。母親の期待通りに子供が育たなかった=子供は私を裏切った、って論理が出来上がってしまうことすらある。「子供を愛する」という大義名分に隠された母親自身の利己的な願望が露呈したとき、子供が心底怯えていたとしても、母親はまったくおかまいなしに行動する。「しつけ」という論理によって、自らの行動は全て正統化され、疑いを持たない。子供としては、「え?なんで?僕のこと大切なはずなのに」となって、非情な孤独を感じるわけだ*1
 まあこの『グリーンヒル』のエピソードは全然そんなんじゃないんだけれど、「誰かが真剣に喋っているのに、彼らはまったく関係ないことを喋ったりする」という恐怖ってそういう母親の怖さがあるんじゃないかと思ったりする。
 『僕といっしょ』には、まあそもそもが捨て子の話だし、母性を強烈に求める話が出てくる。でも、親と子の間には残酷なすれ違いがあったりして、その辺りのことを古谷実にぜひとも描いてもらいたいなあなんて思う。

*1:僕といっしょ』の孤独ってそういう類かも?