『僕といっしょ』ヤンデレの村田マリコについて

 えっと、こないだのLifeでcharlieが言ってることはよくわからないのだけれども(詳しくはこっちのブログに書きました→http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20080110)、古谷実作品『僕といっしょ』の中に村田マリコっていう、それこそヤンデレが居るので、そのことについてちょっとメモ程度に書いてみようかと。
 『僕といっしょ』3巻では、主人公の一人、イトキンが村田マリコという少女と出会う。イトキンは精神的に虚弱な彼女に頼られてしまい、努力をする羽目になる。しかし努力することに耐えられなかったイトキンは、最終的には刃傷沙汰(お尻刺される)に巻き込まれる。以下、イトキンが努力に耐えられなくなっていく様子を引用。

オレは今日からガンバルのだ
<中略>寝るときは必ず心臓の方のオッパイに手をそえる
一日5回は泣く彼女を完璧になぐさめる
妙な集会で歌も歌う
<略>
彼女はすぐ怒る
でも仕事から帰ってくると子ネコちゃんのように甘えんぼさんなんだ
仕事のない日なんて24時間体のどこかが触れ合っている・・・・・・・
一歩も家を出ない日もある・・・・

マリコ 「どこ行くの?」
イトキン「コンビニ」
マリコ 「・・・・・・・・あたしも行く」

オレは思った
帰りたぁ〜〜〜い
何だこの暮らしは・・・・
オレの自由が消えていく
翼のモゲる音がする・・・・

 イトキンは元々捨て子であり、孤独の耐え難い辛さをよく知っている。だからこそ彼は似たような境遇のマリコを見て救おうと思い立つわけだが、結局失敗する。イトキンがこのとき孤独に自覚的であったならば、マリコと向き合うことは出来たんだろうけど、このとき彼は孤独を忘れていた。すぐ夫兄弟と寝食をともにすることで日々孤独を紛らわすことに成功していた彼は、なおかつ自由をも獲得していたわけだ。
 これは思春期の男の子の特徴でもあると思う。この時期の男の子が持つ仲間意識はある種特別で、彼らは日々の憤りや悲しみ、不安を、強力なハイテンションと爆笑でかき消そうとする。そして、それは一時的ではあれ成功するのである。*1 だから、イトキンはマリコとの生活の外に目が向いてしまい、逃げ出してしまう。
 ところが、繰り返すがこれは思春期のほんの一瞬のみ可能な方法でしかなく、その後それぞれの人格が出来上がっていくにつれ、仲間は(この時期に比べると)疎遠になっていく。ここで、僕らは「孤独は紛らわせるものではない」ということに気付き、対応を迫られるのである。
 村上龍がどっかの小説で言ってたなあ。中学生の時期の男の子を「唯一、女性から拘束されない自由な時間」と表していた気がする。ちょっとキザだけど、「それ以前は母親に拘束され、それ以後は美しい女性に拘束される」みたいな感じのことを言っていて、ホントその通りだと思ってしまった。
 だから、『僕といっしょ』より少し上の年齢の男の子を描いた『シガテラ』では、主人公荻野くんは幸せという不安から逃げようと思っても、どこにも逃げ場がないことに気付き、イトキンが失敗した「努力」にもう一度挑戦するのである。
 ・・・メモと言いながら、気付いたら長々と書いてた・・・w

*1:ここに蛇足ながら僕自身の体験を付け加えておく。中学生のころ、僕はよく家出をしていた。まあ家出と言っても親に叱られて数日追い出されるという程度なので、ホントにただの情けない話でしかないんだけれどもw、でもその時はそれなりに悲しくて、寂しく辛い体験だったりした。とにかく寂しさを紛らわせるために、友達という友達と遊びまくる。今思い返すと、中学時代の楽しい思い出はほとんどその時期に集中していることに気付く。悲しい気持ちが強ければ強いほど、裏返しとしての楽しさは増すということだと思う。
 しかし、楽しいのは昼間だけで、夜になるにつれみんなは家に帰り始める。当時から自意識過剰であった僕は「親に叱られて家を追い出された」というみっともない話は誰にも出来ずw、公園で野宿をし、朝は公園のトイレで頭を洗い、昼になるとまた友達と楽しい時間を過ごす、という日々をしばらく繰り返すことになる。夜が来るたびに、この寂しさをどうやって紛らそうかと考えたことを覚えている。
 『僕といっしょ』を読むと、あのころの楽しさと寂しさが一気にフラッシュバックしてしまい、ページをめくる手が震えてしまうわけだw