古谷実論8000字のための下書き その1

真実をもとめるシニカル系過激派組織

 例えば90年代的な笑いってどんなだったろうと考えたとき、真っ先に浮かぶキーワードは、“嘲笑”かもしれない。もはや「愛」やら「真実」やら「夢」やらといった言葉がリアリティを欠き、そうした「大文字」は口にするのも恥ずかしいような空気が漂ってきたとき、「何語っちゃってんの(笑)?」という視点の鋭さがそのまま笑いのセンスに繋がっていったように思う。
 古谷実はそうした空気の中で登場したギャグ出自の漫画家であった。シニカルな空気を敏感に嗅ぎ取る主人公中学生たちのドタバタ劇は、ルサンチマンの発露にもシニカルさを帯びており、そこが多くの読者の共感を得たことは想像に難くない*1。しかし、『稲中』はシニカルなルサンチマンの奥に、ある絶望とも呼ぶべき心性を持っている。その絶望は『稲中』以降の作品において、中心的に扱われるようになっていく。
 例えば、『稲中』の代名詞ともなっている“死ね死ね団”は、主人公前野と井沢によるシニカル系過激派テロリストとも呼ぶべき組織であり、学校内で「青春」や「熱血」や「ラブコメ」にかぶれた連中を見れば、すぐさま攻撃を開始する。それは、モテない思春期の男子らしいルサンチマンと、安易に「大文字」の概念を持ち出すことへのシニカルな姿勢の発露と見ることができる。しかし、連載が進むにつれ、その過剰なまでに攻撃的な行為は、単にギャグマンガという構造上の都合だけではなく、実は主人公達が抱える「大文字」への猛烈な希求の裏返しであることが明らかになっていく。つまり“死ね死ね団”の過激な行動とは、リアリティを失った安易なヒューマニズムを徹底的に糾弾しながら、真に自分が信じられる何かを追い求める姿勢なのである。

肥大した自意識1

 リアリティを失った「大文字」の概念として彼らが最も敵視するものに、「かけがえのない、交換不可能な私」というものがある。この概念からリアリティが失われると、単なる「肥大した自意識」になる。それはつまり、見られたい自分像と実際に他人に映る自分像の間に確実に存在するギャップに対して、その原因を他人の目の欠陥だと主張するような態度のことをいう。
 しかし前野や井沢の誠実さは、肥大した自意識を糾弾する自分の中にこそ、グロテスクに肥大した自意識があるということを見逃せない。過剰なまでの攻撃性は、他者に映し出された自分に対するものであることに自覚的である。
 例えば、ヘアヌードカメラマンになりたいと言い出した井沢が、同級生の女子である神谷を脱がそうとするという、流れだけなら単なるおバカな中学生男子のエピソードがあるのだが、そのときのやりとりだけを抜き出すとこんな感じになっている。 

 井沢「人間ってどうして服を着るのかな?」「僕は人に変わりモノに見られたいから 僕はアーチストっぽく賢そうにキメたいから 私はちょっと不思議少女に見られたいから」
 神谷「それは自己表現ですよ!表現は自由ですもん!」
 井沢「そう 表現は自由だ 大いにかまわない」「しかしそんな彼らは一日のカロリーを「服」に費やしたりしている・・・・」「ゴミをひろえゴミをー!!!どーなってんだよ!?」
 「昔々アダムとイヴは素っ裸で仲良くやってましたー!!じゃどして服なんか着だしたワケ!?ね どーして!?」
 神谷「きっ禁断の果実を食べたからです」
 井沢「どっちが食べた!?男か女か!?どっちだ!!?」
 神谷「イッイヴです!!」
 井沢「女のほうか・・・・」
 前野&田中「責任とって!!僕たちはすっぱだかでいたかった!!」(←泣きながら)

 そう、彼らは「すっぱだか」でいたかったのである。すっぱだかの自分とは、小さくてしょぼい自分、いつも口だけな自分、カッコつけて大きく見せたがっている自分、醜く恥ずかしい不細工な自分のことである。彼らはそんなすっぱだかの自分を直視することができない*2。それ故に、肥大した自意識を嫌うと同時に、それに頼らざるを得ない自分を発見してしまうのである。

*1:行け!稲中卓球部』(以下『稲中』)の連載当初、ギャグマンガ界は不条理系が全盛で、勢いとくだらなさでストレートに笑わせようとする『稲中』は珍しかったという。一見このことは当時の時代的な空気とは逆行しているように見えるが、「とにかくページをめくる度に笑える、それだけを考えてやっていこう」(『クイック・ジャパン43号』担当編集山崎稔氏へのインタビューより)という姿勢は、「大文字」不在であるがゆえの刹那的・反射的な笑いを追求した結果であったのだと思う

*2:とかいって、死ね死ね団はすぐに裸になるじゃないかっていう反論があると思うのだけど、これに関しては一言言っておきたい。彼らがすぐに服を脱ぐのは、すっぱだかの自分を晒すことへの恐怖があるからに他ならない。そもそも、彼らが学校の中で変態と蔑まれ、指を指されて笑われるような役割を甘んじて受ける・・・というより、むしろ買って出るのは、先に笑われる存在になっておけば、それ以上笑われることがないだろう、という考えのもとである。それと同様の図式で、服を脱いで恥ずかしい思いをしておけば、それ以上の恥ずかしいことは起こらないであろう、というように先手を打っているのである