古谷実作品、メモ

 今日は前述の授業で発表があったので、その際に調べたことをいくつか挙げようと思います。

自意識の二段階構造

 古谷実の誠実さがよくわかる部分です。稲中の6巻「不美人」のエピソードでは、勘違いなブスの自意識過剰を描きながら、実は自分もそういった自意識に捉われている、ということを鮮やかに描きます。
 自意識過剰な人を笑いものにするっていうのは、割と多くのギャグマンガに見られますが、自分も実は勘違い君と一緒なんだ、という意識は結構少ないです。そして、それどころかそのことに罪悪感を持って、矛盾に苦しみ、ずーっとそのことを描き続ける人は、ほとんどいないと思います。
 後でシガテラのところで触れますが、今不安について知るためにキルケゴールの概説書を読んでいまして、キルケゴールがだんだん荻野くん(シガテラ)や富岡君(わにとかげぎす)に見えてきます。

稲中の時代

 TBSラジオ文化系トークラジオLIFE」の「After95」(http://www.tbsradio.jp/life/2006/11/1028after95part4.html)(http://www.tbsradio.jp/life/2006/11/1028after95part3.html)と、クイック・ジャパンの43号(古谷実ヒミズ」完結記念特集)を参考にしました。
 稲中の連載は93〜96年。バブル崩壊後の作品のひとつであると思います。山一證券の自主廃業発表が97年で、95年には阪神大震災地下鉄サリン事件など、社会不安の広がる時期です。自分の身は自分でまもるという意識と、「隣は何をする人ぞ」という不安。マンガ的にはスラムダンクドラゴンボールが終了して、ジャンプが一時低迷(ジャンプの3大テーマは、「友情」「努力」「勝利」)。97年に少年マガジンが首位に立ちます。そういう孤独や不安の現実を見ようとしない人たちは、93年の「完全自殺マニュアル」や「ハルマゲドン」といった方向へ向かいます。
 先生が補足として、バブルのときには二極分解が起きていたことをおっしゃってくださったんですが、そのことについてはあまり調べていませんでした。その辺りも鑑みながらまた、二極のうちの一極、富裕層の人たちがオウムに引かれていったということに関しても、しっかり調べる必要を感じました。
 自意識という問題と、そこから現れる孤独と不安。稲中の発表を終えた後、「ヒミズの化け物って自意識の象徴なんですかねえ?」と聞いてきてくださった方がいて、そのときは頭が回らなくて「さあ〜どうなんでしょうねえ?」なんて馬鹿な返答をしてしまったんですが、なるほど、確かにそのとおりじゃないか!!
 そういえば宮台真司さんと宮崎哲弥さんの対談集「M2:エイリアンズ」にも確かそんなことが載ってた気がします。でも、まだ整理できていませんが、あのヒミズ論には少し違和感を覚えました。納得できるまで読み返してみます。

以前書いたキクちゃんについての文章の不備

 このエピソードからは、「顔がいくら良くたってダメで、性格の良さは何よりも大切なことなのだ」という世間一般に蔓延するキレイゴトが、それこそキレイゴトである、という事実が浮かび上がってくる。古谷実の圧倒的な画力で描くブスはみなものすごい造形で、かつリアリティのある者ばかりだが、中でもキクちゃんはナンバー1の呼び声が高い。そしているだけで笑ってしまうようなルックスを持つキクちゃんの、しかし美しい健気な心は読者みんなの心を打つ。そういったキクちゃんの心の美しさを、前野は本心(つまりキクちゃんはブスと思う感情)を覆い隠すための自己暗示用アイテムとして活用しようとする。キクちゃんの心の清らかさを見る度、前野はキレイゴトという虚飾の世界に埋没しようと、涙ぐましい自己啓発をするのである。しかし、アクシデントでキクちゃんに目潰しを食らわしてしまった前野は、現実に戻される。それも、前野を虚飾の世界にいざなうキクちゃん自身によって、である。その瞬間、キクちゃんは痛みに悶絶しながら、前野を罵倒する。心が清らかで、人を悪く言わないハズのキクちゃんが、前野を攻め立てるのである。前野は、幻滅する。それこそ読んで字のごとく「幻滅」する。突如として自己暗示は解け、押し込めたはずのあられもない現実がよみがえってくる。(もちろん彼はどんな善良な人間でさえも怒るだろうと思われることをしているわけだが、彼が絶望的に孤独である状況から脱するためには、聖者のような人間でなければならなかったのである。)そして、彼はキクちゃんに「ブス」と告げてその場を逃げさる。
http://d.hatena.ne.jp/akiraah/20060527より抜粋)。
 ちなみに、これかなりひどい文章ですね(汗。まあ普段から文章はうまくないけど、これはリズムが悪すぎます(涙)。まあそれは置いといて。
 足りなかったのは、前野が、彼の醜い自意識をキクちゃんに見せていて、キクちゃんはそれを容認してくれる可能性があったというところです。キクちゃんと歩いていると恥ずかしいというのは、前野たちが嫌う自意識くんとまったく同じ思考です。
 キクちゃんと一緒に歩いているときに、前野はばったり友達に会ってしまいます。彼はそこで、キクちゃんといる自分を恥じ、キクちゃんをペットだと言い放ちます。キクちゃんは黙ってそれに従うんですが、友達の去った後、前野が罪悪感に駆られるのに対し、キクちゃんは「いいの。だってあたしブスだもん」と、とても健気なことを言います。泣けます。つまり、彼女は前野の醜い自意識が出てきたときに、それを容認する美しい母性を持っていたということです。それが、目潰しのアクシデントを契機に崩れるということで、前野は深い絶望を感じるという結果を招きます。

着ぐるみを着続ける孤独を吐露する場面

 12巻の最後のエピソード、井沢がヘアヌードカメラマンになりたいといって、神谷さんを脱がそうとするときのやり取りです。 

井沢「人間ってどうして服を着るのかな?」
 「僕は人に変わりモノに見られたいから 僕はアーチストっぽく賢そうにキメたいから 私はちょっと不思議少女に見られたいから」
 神谷「それは自己表現ですよ!表現は自由ですもん!」
 井沢「そう 表現は自由だ 大いにかまわない」「しかしそんな彼らは一日のカロリーを「服」に費やしたりしている・・・・」
 「ゴミをひろえゴミをー!!!どーなってんだよ!?」
 「昔々アダムとイヴは素っ裸で仲良くやってましたー!!じゃどして服なんか着だしたワケ!?ね どーして!?」
 神谷「きっ禁断の果実を食べたからです」
 井沢「どっちが食べた!?男か女か!?どっちだ!!?」
 神谷「イッイヴです!!」
 井沢「女のほうか・・・・」
 前野&田中「責任とって!!僕たちはすっぱだかでいたかった!!」

もう何も解説がいらないくらい、自分たちの孤独を嘆いています。
そして彼らは13巻の「まだ見ぬ僕の恋人よ」というところからわかるように、男女の愛の前であれば、弱くて醜い自分の全てをさらけ出せると思うようになります。それを中心にした作品が、シガテラであったと思うのですが、このエピソードの中で(前野の生まれ変わりの候補として)腸炎ビブリオというのが出てきます。これは魚介類を通して感染するものなんですが、シガテラ毒と通ずるものがあります。おそらく、無関係ではないでしょう。
 

「愛」についての論考 伊藤整から連なる古谷実の閉塞感

 学校の授業で、伊藤整の文章を読んで驚愕したので、久しぶりにブログを更新します。
 「近代日本における「愛」の虚偽」というタイトルの論考なんですが、「愛」という言葉の不自然さの指摘として、伊藤整が着眼したのはキリスト教的な神の有無でした。
 愛は「自己に対するときのように、他者に為す」という不可能への挑戦です。敢えてそこに近づくために、キリスト教では「神」という唯一で巨大なものを前にします。その前に立てば、隣人は自分と似ることができ、自分と同じ立場にあることができるという論理です。
 これに対し、仏教的な概念においては「慈悲」という言葉があるのですが、伊藤整は、これは人と人の間において生まれる感情であり、そこにはどうしても上下・優劣の意識があるのではないかと言います。そういった意味で、差別を基調にした社会が日本の封建社会として成り立っていたということになります。
 (↑実は、この学校の授業というのは、呉智英先生によるものなんですw)
 さて、伝統的に封建的な意識で成り立っていた私たちの生活に、突如としてキリスト教的な価値観「愛」が輸入されるとどのようなことが起こるのでしょうか。

多分、愛という言葉は、我々には、同情、憐れみ、遠慮、気づかい、というもの、最上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されていないのだ。そして、そのような愛という言葉を、日本人が恋において使い、ヒューマニズムという言葉を、道徳の最終形式のように使うとき、そこには、大きな埋められない空白が残るのだ。

まず、無理やりな言葉の変換が行われるということです。先行する今までの価値観に沿って考えるため、「他者を自己のように愛せ」ということは、「神を前にする」というキリスト教の努力すらなしに表面上の言葉に留まります。
 そして、この後の文章がすごいんですが

この西欧の考え方は、我々を封建制度から解放し、女性を家庭の奴隷状態から解放した。それとともに、我々を別個な虚偽、キリスト教の救済性を持たぬ虚偽の中に導き入れたのだ。

これは、後で書きますがシガテラにおいて古谷実が明示した、絶望→救済→救済された場所も実は絶望、というポスト・モダンな閉塞感の図式です。
 伊藤整のこのテキストは、初出が1958年、神武景気の後の不況がすぐに終わり、岩戸景気が始まるか始まらないかのころです。この2年後には国民所得倍増計画が提出され、日本社会全体が、戦後復興という流れから、経済発展という理想への邁進へ移行することになるわけですが、これがいわゆる「大きな物語」として機能し、共通了解となって社会を成立させていたわけです。
 そういった意味で、この「近代日本における「愛」の虚偽」は、来るべき西欧化=キリスト教化する日本社会への自覚を促すものとして書かれたのかもしれませんが、「キリスト教的神の不在」という問題を、「大きな物語」の喪失と置き換えると、そのまま今日の問題として読むことができます。
 もっと言えば、「大きな物語」をキリスト教的な神(イデア)として読み取っていただけに、伊藤整の「神の不在」の指摘は、当時はあまり理解されなかったか、あるいは当時は理解されたんだけど、その後の経済成長への夢と実現によって忘却されてしまったのではないか、という可能性を考えてしまいます。そして、今になってやっと真正面から考えられるときが来たのかな、と思います。(まあ、これは呉先生から「間違ってるけど面白い」と言われたんだけれどもw、でも僕にはまだ間違ってるとは思えないので、このまま書かせていただきます。)
 さて、古谷実作品の主人公たちは、この「愛」というものに懐疑的です。伊藤整の文章を読んだ後だと、それが上のような変遷を経た言葉だからだ、と分かります。仏教的価値観とキリスト教的価値観があったときに、キリスト教的価値観の方が魅力的に映ります。やはり、孤独よりも他者と解りあえる方が端から見ると良く映ります。しかし、そうやって「愛」に魅力を感じているんだけれども、どういうわけか素直に享受できない、という繊細で鋭敏な感覚を持ち合わせている彼らは、近づきたくても近づけない他者を感じています。
 伊藤整によれば、仏教は「社会を離れ、隠遁し、孤独になるときに心の平安を得る」という特徴を持ち、「他者との結びつきには我々を不安にするものが常にある」といいます。これは(僕もだけれど)、古谷作品の主人公たちに一貫して見られる性格そのものです。
 稲中13巻キクちゃんのエピソードについては以前言及しましたが(→参照)、これの続編がそれぞれヒミズシガテラになっていると思います。これらは、「愛」に懐疑的な主人公たちが「愛」に出会ってしまってどうするか、という状態が描かれています。ヒミズの住田は、最初の「誰にも迷惑をかけないから、頼むからほっといてくれ」という状況から、二転三転して、最後にまた「孤独の境地」に帰ります。シガテラの荻野くんは、他者と解りあうことをやがて諦め、絶望のなか「そういうものだ」と生きていく決心をします。
 キリスト教的価値観が流入した仏教国に生きる私たちが、敢えて在来の価値観を実践しようとすれば、ヒミズのような結末を迎えることしかできず、近代的な価値観を求めて生きようとするならば、シガテラのように全て解った上で、自覚的に演じなければならないのではないでしょうか。

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わにとかげぎす 単行本1巻発売に関するメモ

 ついに発売されました。表紙はキングクリムゾンみたいな表紙(!)です。気になる回を単発でピックアップしてこのブログも更新されていたわけですが、単行本で読むと、そのときには見えにくかったものがクリアに見えて、あらためてなるほどなあと思ったりしました。
 わにとかげぎすは、主要な登場人物たちがみな何かしらの不安や絶望を抱えています。それら不安や絶望に対抗すべき手段は、基本的にはやはり「夢」や「希望」なわけで、彼らはみなそれぞれ不安と戦いながら、夢や希望にアプローチしていきます。宝くじおじさんは金、雨川くんは弱弱しい女性、花林くんは夢に出てくる理想の女性、そして羽田さんには富岡君、という風に、それぞれがみな目標とすべき対象を持ち、それらのアプローチを描いていきます。
 それぞれが夢や希望に向かい、そこに幸福や不幸、生きがいを見出そうとしているのに対し、富岡君は少々異なった事情を持ちます。彼はそもそも不幸に陥るかもしれない、という不安を回避してきたわけで、その結果が孤独の世界という形で反映されていました。しかし、毎日を生きている以上、誰とも触れ合わないというのは絶望以外の何者でもありません。かつての理想郷に絶望してしまった富岡君には、大きな幸福や不幸、これをとったら何も残らないという生きがいとしての夢はありません。ひとつ、友達を作る、というささやかな目標を立てます。
 第一巻の話の中での感想のみ書いたので、かなり「これからをチェック」という他ない内容になってしまったのですが、連載においては雨川くん編が始まっています。彼のドラマチックな生き様は、富岡君に何をもたらすでしょうか。

いがらしみきお「sink」を読んだ後の私的なメモ

 「ぼのぼの」の作者によるかなりの力作。あえて「ぼのぼの」を強調したいんですが、そのイメージで見ると、ジャンルとしてはホラーに位置づけられる作品のはずなのに「ああ、これってぼのぼのっぽいなあ」って思えてきます。そう考えると「ぼのぼの」がおそろしく感じられたり・・・w
 世界は、本来ならば「不安」及び「不幸」が不自然に疎外されていないわけで、本当は私たち(論理)と共存しているはず。主人公(?)の息子「駿」が居場所を求めて異界(不条理)と触れ合うってのはモロに寓話的です。
 でも、ホントの世界ってのが逆襲(?)を果たし、不幸と背中合わせの日常を描いたラストは、やっぱりハッピーエンドだったのかなって思います。現実には、不幸そのものがいくらでも消去可能だってことがばれちゃってるわけで、「論理」は強すぎます。不条理はどんどん駆逐されていきます。
 例えば、医療ミスというのは人為的なミスです。人為的なミスというのは人間が起こすうっかりミスのことで、責任の所在が明らかです。しかし、うっかりミスは確率の高低の差こそあれ、必ず存在します。医学がここまで進歩している現在、神の気まぐれで先天的な病を持つことと、人為的な医療ミスに出くわすことは同義といってもいいかもしれません。しかし後者には「被害」という概念が存在し、「論理」的に「悪いやつ」を言い当てることが可能です。怒りのぶつけどころがあります。
 このラストで、いがらし氏の不条理への強い信頼感を感じてしまったんですが(ぼのぼのも、もしかしたら不条理ギャグに入るのかもしれない)、シガテラの出口のない絶望を知ってから読むと、「そうだったらまだ幸せなんだよなあ」と思ってしまうから、さらに恐ろしいですw

「不安」⇒「絶望」⇒その外へ 〜ドラゴンヘッドの闇と傷頭〜

 古谷実氏の尊敬する望月峯太郎氏の超名作、ドラゴンヘッドをこの間読み返していました。やっぱりいつ読んでもこの閉塞感はものすごいです。トンネルを出た後でも、息苦しい闇は続きます。
 あ、これ以降ネタバレするかもしれませんが、未読の方、あしからず。
 ドラゴンヘッドの闇はいろいろいわれそうだけれど、とりあえずここで古谷実作品とつなげていうなら、ヒミズの「バケモノ」やグリーンヒルの「めんどくさい」などと共通していると思います。テルやノブオがトンネルの中で感じる闇は、ある意味まだ「自分の心に巣食う闇」みたいな見方もできると思うんですが、富士山であったとおぼしき場所に開いた巨大な穴(「深淵」)にヘリで降下していくとき、「自分の心」などとは全く別の次元にある、とにかく途方もない、そして「元からそこにある闇」を目撃するわけです(ヒミズで直面した「決まっているんだ」とはまさにこのことではないのでしょうか)。
 最終巻辺りになると、「巨大な闇は自分の心の中にあった」とかってテルは思うんですが、それはテルと、おそらくは望月峯太郎氏の無意識的な勘違いで、ドラゴンヘッドで一番恐ろしい・・・というか、まだ名前のついていない感情を強烈に叩き起こされるのは、7巻の「深淵」だと思います。
 ドラゴンヘッドには、「傷頭」と呼ばれているロボトミーが登場します。彼らはもともとは恐怖に対して非常に敏感な者たちで、まあ多分強迫神経症とかそんな病名で精神科に通院・入院していたんでしょうが、災害の時のドサクサにまぎれて、脳の恐怖に関係する部位、海馬と偏頭体を摘出してしまいます。そのため彼らには恐怖の感覚はなく、それは同時に「生の実感」すらないというのがドラゴンヘッドの話題の中心になっていきます。東京に突如として現れた富士の噴火(龍が立ち昇るように見える)は、彼らの失われた海馬(タツノオトシゴの意味もある)の象徴でもあり、麻痺させられた恐怖のルネサンスが始まる、といったところで物語は終わります。(ちなみに「傷頭」のモデルはおそらく諸星大二郎「蒼い群れ」に出てくる、施設の外を知らない車椅子の少年だと思うんですが、是非ご参照ください。「ぼくとフリオと校庭で」収録。)
 耐え切れないほどの不安や恐怖は、私たちの「生」を脅かし、押しつぶすこともあります。ドラゴンヘッドに関する言説で巷に溢れるのは、私たちが充実した「生」を体感するためには、不安や恐怖は遠ざけすぎてはいけない、というものですが、確かにそういうことはドラゴンヘッドでも語られているんですが、そんな分かりきったことだけを読み取ってしまうと、途端にこの作品がつまらなくなります。
 そもそも、不安から来る恐怖と、絶望から来る恐怖は別です。ここで再び「深淵」に戻ります。富士山のあるべき場所に開いた大きな闇の中に下降していったとき、噴火口の巨大過ぎる闇に四人は恐怖し、耐え切れなくなって上昇します。それは、そこに「何かがいるかもしれない」という不安ではなくて、そこに「全く何も無い」という絶望があったから恐怖したのではないでしょうか。
 わにとかげぎすの連載開始時のコピーは、「深淵(アビス)から浮上せよ」でした。ヒミズシガテラで「不安」と、そして「絶望」を描いた後、その「絶望」=「深淵」から浮上しようとする人々を描くわけです。物語の初め、主人公の富岡ゆうじ君の葛藤がとても面白いです。外の世界には不安がいっぱいあるから、自分はできるだけ人と触れ合わない生活を実践しています。ところが、自ら望んだ「孤独」に、彼は耐え切れなくなります。「孤独」は、紛れもない絶望のことです。「何かがいるかもしれない」という不安を避け続けるためには、「全く何もない」場所に身を置くしかないのですが、その絶望にすら恐怖してしまい、仕方なく不安のはびこる外の世界に出て行く、という経緯を辿ります。
 実は、これはシガテラで荻野くんが経験していることで、荻野くんは絶望と共存し、不安を麻痺させる道を選びました。ドラゴンヘッドのノブオと同じです(「闇と仲良くするしかない」)。わにとかげぎすでは、富岡君及びその仲間たちがどのような道を発見していくのでしょうか。

 

「バカだな、ホアンホアンはとっくに死んだよ」

 タイトルはおそらく、ここでもよく取り上げられる「僕といっしょ」の中の台詞から。「ホアンホアン」はパンダではなく、主人公の切実な、でも端から見れば滑稽な不安を指しています。
 主人公は、常にこの社会から疎外感を感じていて、ひねくれて物を見るくせがついてしまった20歳の「僕」。幸せを素直に享受したことのない「僕」はある日、まだあまり知らないけれども、顔が可愛い女の子と付き合うことになります。デートの真似事のようなことをしているうちに、「僕」は段々彼女のことが好きになり、幸せを素直に享受することを覚えていくのですが、その一方で「彼女との幸せがいつ壊されるのか」という不安に毎日襲われることになります。
 「僕」がもっとも恐れているのは、他人の手によって無造作に「幸せを壊される」ことです。テレビ番組で友達の彼女を奪ったという話が出れば恐ろしくなり、レイプ犯の手記を読んで彼女を危険から遠ざけようとしたり、素人ナンパモノのアダルトビデオを見て、ナンパ師たちから身を守る術を彼女に知らせようとします。
 彼女は「僕」とは対照的で、幸せの壊れる瞬間を想像することなく毎日を過ごしています。それは不安を超克して得た境地というわけではなく、ただ単純に、世の中に溢れる恐ろしい事実と、自分の周りの平和がリンクしていないだけです。地続きではないという認識にあるわけです。
 どこまでを「自分の周り」と定めるかが異なる彼女と「僕」は、お互いの「自分の周り」を巡って侵食しあいます。「僕」は彼女の考える「自分の周り」に自らを同調させようと、不安の消去に努めます。彼女は今まで味わってこなかった「不安」を「僕」によって植えつけられていきます。しかし、少しの不安に耐えうるだけの免疫をつけていなかった彼女は、思いの外怯えることになり、やがてそこに二人の「幸せの終わり」が見え隠れするようになります。
 それに気付いた「僕」は、彼女をいたずらに不安にさせるような行動を慎み、やがて彼女は元の平和な毎日に舞い戻ることになります。
 物語の終盤、上野動物園でデートの際、「僕」は「ホアンホアンはとっくに死んだよ」と話します。その言葉は、彼女と解り合うことをあきらめる宣言になっているわけです。

「わにとかげぎす」メモ(第15話参照)

 雨川くんの惚れた女性、ヤクザにレイプされたとかで弱み握られて、無理矢理そのヤクザの愛人にされているということが前回判明。その女性がヤクザの手から逃れるために、ヤクザの部屋に保管されている金庫(雨川くんの好きな女性を含む、多くの被害者のレイプ映像が入っているらしい)を強奪して処分しようという作戦が持ち上がります。
 この金庫は、不安そのものです。金庫をどうにかすれば楽になれると信じ、不安と真正面から対峙するその女性からは、やっぱり村田マリコ(「僕といっしょ」でイトキンと一時同棲する女の子)や、ヒミズの住田が感じられます。
 古谷実作品における、不安との付き合い方の変遷を見ていくと、ヒミズはそれと正直に向き合うことで潰れてしまい、シガテラは不安を凌駕する幸福を、刹那的にメタとして捉えることで克服しました。わにとかげぎすの最初に出てきた宝くじおじさんは、「夢」を刹那的に、単なる感情移入装置と知っていながら消費することで不安を克服していました。シガテラ型です。雨川の好きな女性はヒミズ型といえるでしょう。そこに富岡君に対応する羽田さんはどうなのか、これから気になります。
 もうひとつ、わにとかげぎすで注目できるのは、富岡君や雨川くんら主人公たちは孤独を抱えており、それに対応するように、彼らと対になる女性たちが不安と向き合っている、という点です。その女性たちの不安に、なんらかの形で決着がつくとき、主人公らの孤独はどうなるのでしょうか。今までの古谷実作品が、孤独と不安を平行して扱っていたのに対し、今回の作品では、両者をいったん切り分けることで、よりクリアな何かが見えてくる気がします。