『わにとかげぎす』来週が最終回だそうな

 いきなりな気がして驚いてしまった。考えたら4巻で終了ってのは『僕といっしょ』『ヒミズ』と同じなわけで、古谷作品としては普通。
 まあそんな話はどうでもよくて、今回の作品、ここで終わるってのは、正直「折れた感」は否めないと思います。折れたからどうってわけじゃなくて、重要なのは“どうして折れたか”です。
 『シガテラ』までは「孤独の克服」を描いてきましたが、『わにとかげぎす』からは「孤独からの脱出」にシフトチェンジしました。孤独に対抗するために描かれる他者も、「恋人」から「友達」へ変化がありました。
 古谷作品は、途中まで結構迷走が続き、その後何かを掴むとどんどん加速していくわけですが、今回は最後まで迷走していたように思います。最後までとっかかりをつかめなかったのは、「友達」では孤独から逃れられなかったのか、『シガテラ』で到達した結論が強すぎたのか、とか。そんなことを考えています。
 『シガテラ』の結論は、“結局ひとり”ってことです。それはそれで境地なわけで、中島義道さんなんかは『孤独について』(講談社現代新書)『愛という試練』(紀伊国屋書店)などを読めばわかるように、その境地の中で生きています*1。自分で悟ってしまったことを、敢えて崩そうとしたのが、『わにとかげぎす』だったと思うんですが、やっぱり「ホントの自分はこんなんじゃない」という自意識を持たず、「向き合った自分になんて大したものはない」という自意識の薄い主人公を置いたことは、描いていくのになかなか難しいことだったと思います。
 『わにとかげぎす』は単体で見れば駄作と言われるのかもしれないけれども、また少し視点を変えて、なんだか孤独に襲われてしまったおじさんが、友達を求めているうちに徐々に幸福になっていく話・・・がしかし・・・??、という風に見ると、古谷実がぼんやりと何かを掴みかけているような気もします。
 僕は『わにとかげぎす』を、シガテラ』以後、第二のデビュー作に向けての習作、とポジティヴに捉えたいかな、と。ただ、迷走はもしかしたら今後も続くのかな、という気もします。まあ来週の最終回を待ってからの話ではあるんだけれども。
 『文化系トークラジオLife』の文化系大新年会パート4(→http://www.tbsradio.jp/life/2007/01/11lifepart4.html)で、charlieは、幸福になる自分にどこかでブレーキかけるのが古谷実、と言ってましたが、来週の最終回で今後につながる何かが提示されるかもしれませんね。
 ま、とりあえず今日はここまでで。

 追記です。仲俣暁生さんが海難記ですこし語っています。→http://d.hatena.ne.jp/solar/20070509
 羽田さんという存在は、これまでのヒロイン像(母性と父性を併せ持つ)に、弱冠“自意識”という軸が足されているような気がして、これも『わにとかげぎす』が見せた古谷作品の新しい局面だと思いました。

*1:ちなみにこの哲学者、まるっきり古谷実だと思います

孤独と自意識過剰の関係

 文化系トークラジオLifeがこの間「友達」をテーマにしたので(→http://www.tbsradio.jp/life/20070422/)、古谷実の『わにとかげぎす』について何かヒントをと思い、メールを送ってみました。

 古谷実に特化した内容だったので読んでもらえるか心配でしたが、さすがはLife、読んでくれました!!以下に送信したメールの抜粋を。

 僕は古谷実原理主義者と名乗りたくなるくらい、古谷作品に強く同調してしまうんですが、今回のテーマを聞いて、連載中の『わにとかげぎす』に触れないわけにはいかないと思いました。
 古谷実は、『稲中』以来ずっと疎外感・孤独感との格闘を描き続けてきましたが、『ヒミズ』を経てついに『シガテラ』で「結局ひとりなんだ」ということを描いてしまったように思います。しかし『わにとかげぎす』は、またもう一度孤独から出発しています。これまでとは異なる孤独との付き合い方を模索しているように思います。

 『シガテラ』までの一連の作品は、孤独の反対に「恋人」を思い描いていましたが、『わにとかげぎす』からは、孤独の反対に「友達」という「定義すらあいまいなもの」を置いています。これは、真正面から「孤独の克服」を目指すのではなく、確かにそこにあり、消すことのできない孤独を遠ざける、「孤独からの脱出」に移行したのだと思います。

 以前「大人になること」の外伝で、柳瀬さんが「ある日突然、一人旅の旅先で退屈を感じてしまった。孤独を楽しめなくなってしまった」とおっしゃっていたのを思い出し、もう少しそのことについてお聞きしたいな、と思いました。
 孤独のつまらなさを感じてしまったとき、それを埋めたいと思ったとき、思い描いたのは友達なんでしょうか?恋人なんでしょうか?それとも、何か別の共同体意識みたいなものでしょうか?

 これに対して、柳瀬さんが返答してくださいました。

「孤独と向き合って面白い時期というのは、向き合った自分に何かがある、と思っている時期だと思う。だから旅行に行ったり、本に耽溺したりして、孤独を楽しむことができた。けれども大人になると、向き合った自分に大したものはないっていうのがわかってしまう。」

 これを聞いて、ついこないだの体験を思い出し、大変納得したことがあります。
 僕は、何かうれしいことがあったり、やり遂げたことがあったりすると、ひとりでこっそりお祝いをする習慣があって、学校帰りの餃子の王将で、大好きな餃子セットと生ビールを待つ時間が最高に好きだったりします。それは、絶対に誰からもジャマされたくない空間なわけですから、ケータイの電源だって必ず切ります。
 ある日、彼女といつもの街を歩いていると、駅近くの空き店舗の改修が進んでいて、どうやら餃子の王将の新店舗がそこにオープンするようでした。思わず僕が「餃子の王将大好きなんだよ。餃子セットがイイんだけど、セットってのは餃子とキムチと卵スープとライスで、それらをただばくばく食べるだけじゃダメで(以下略)」などと熱く語ると、彼女は笑いながら「じゃあ今度一緒に行こうね。そのおいしい食べ方を教えてよ。」と返してくれました。その瞬間、僕の中で何かが失われていく気がして(自分で炊きつけておきながらw)、素直に「うん、行こうね。」と言えませんでした。餃子の王将すら失われたら、僕は、ぼ、ぼ、ぼくは、一体どうなってしまうのだろう!!(←バカw)、という大げさな不安に襲われたわけです(苦笑)。
 今の彼女の存在は、僕に、自分でも認めたくないくらいイヤんなっちゃう事実を、彼女の前にさらけ出す決断をさせました。言い換えればそれは、自意識の殻を侵食される、という体験だと思います。付き合い始めたばかりの頃は、恐ろしかったり悲しかったりもしましたが、そのうち侵食されていくことに心地良さを感じるようになりました。そうして自分の中で「自分なんてこんなもんだ」というのを増やしていったように思います。
 しかしその一方で、ひとりの時間をより充実させようという意識も高くなっていたようです。以前ならばいくらひとりの餃子の王将が好きでも、ケータイの電源を切ったりすることもなかったでしょうし、二人で店に入ることだってそんなに気にしなかったと思います。こんなに過度に反応するのは、「自分なんてこんなもんだ」という事実を認めながらも、どこかでこんな風に「でもやっぱり・・・」という捨てきれない部分を持っているからだと気づきました。
 ここまで醜く逃げ惑う自意識の殻をどうしたら良いものか、と途方にくれながら、僕はもう一度、とても感動した雨宮まみさんという女性AVライター(id:mamiamamiya)のこのエントリ*1を読み返します→http://d.hatena.ne.jp/mamiamamiya/20070403。あ、AVってオーディオ・ヴィジュアルじゃないですよ。アダルト・ヴィデオですからね。念のためw

*1:僕は雨宮さんのこれを読んだとき、その場で泣き崩れたくなるような、そんな気持ちになりました。そして、これがとってもスゴイ体験だったのは、ただ感動したってだけではありません。「こんな体験できるのだろうか・・・」という突き放された感覚ではなくて、「こんな体験してみたい!!」というポジティヴさを身に付けることが出来ました。

「友達が欲しい・・・」 『わにとかげぎす』の孤独を考え中

 文化系トークラジオLifeの今週のテーマが「友達」(→http://www.tbsradio.jp/life/20070422/)ということで、『わにとかげぎす』の主人公富岡君が友達を求めるゆえんを探るためにも、今回は必聴。
 孤独を恐れていた『稲中』『僕といっしょ』『グリーンヒル』から、『ヒミズ』という限界を経て、『シガテラ』で孤独を受け入れていったように思うんですが、また古谷実は孤独を恐れる人間を描き始めました。孤独の気楽さや良さを享受していた32歳の主人公富岡君は、ある日突然「孤独に死の影すら見るようになってしまった」ということです。
 一段落つけたハズの「孤独」をもう一度テーマにする、というのはどういうことなんだろう・・・??
 しかも今回は今までとは趣きが違っています。これまでは、嘘臭いセリフを臆面も無く話すヤツをシニカルに笑い飛ばす一方、実は心の奥底では濃厚な「真実」への情熱が煮えたぎっていたわけで、そこには克服するに積極的な理由、つまり「僕をわかってくれる人」を探し出すという動機があったように思えます。しかし、『わにとかげぎす』では、孤独を克服しようとしたのには何か目的があるからではなく、その孤独自体が耐え難いものになっていたからです。
 だから、どんな友達が欲しいとかってのがあまり明確に見えてきません。途中、「人生を語り合うような友達」と言ったり「古代ローマ人の行き先を気にする友達」とかって言ったりしてますが、稲中の前野や井沢が、僕といっしょのすぐ起が、グリーンヒルのリーダーが、求めていたものとは大きく異なるようです。
 彼らが求めていたのは、「恋人」でした。これまで古谷作品において、「孤独」は克服されるべきものであったため、対概念としては孤独を根こそぎ抜き去るようなもの、すべてをさらけだし、すべてを分かり合う可能性を持った「恋人」が提示されていました。
 『シガテラ』の結論が、「すべてを分かり合える真実の存在はない」というものだったとすれば、『わにとかげぎす』はそんな大それたものを掲げて孤独を「克服」するのではなく、「友達」という曖昧なものを通して孤独から「脱出」しようとしているのだと思います。
 「孤独」がテーマであるのに変わりはありませんが、孤独に対するアプローチが「恋人」(すべてを分かり合うための存在)から、「友達」(どんな存在ですか??この括弧の中を埋めたい・・・)へと移行しています。

 そういえば以前、Life出演者の柳瀬博一さんが「大人になること」の回でこんなことを言っていました。ポッドキャストhttp://podcast.tbsradio.jp/life/files/20070226_7.mp3。19分10秒あたりから。
 毎年一人旅をしていた柳瀬さんが、あるとき一人でいる時間を退屈に感じてしまった瞬間、というのはなんだったのだろう、と気になります。
 今回の放送や外伝(ポッドキャストのみ配信の番組番外編。一時間有り)で触れてくれたらな、とメールを送っておきましたが、あまり古谷実に特化した内容なので扱ってくれるのだろうか・・・w

あらためてヒミズを読み返す

 古谷実作品の主人公には、自意識過剰という大きな特徴があります。しかし連載中の『わにとかげぎす』では、主人公富岡君の自意識が薄くなってきています。冒頭部分には少しだけ「呪い」なる自意識が見え隠れする場面がありますが、設定が32歳ということもあるのか、孤独から逃げるという消極的(かどうかは不明だけれども)な理由だからか、大きく自意識過剰な場面が強調されていません。
 今後読み解いていくためにも、おそらく『わにとかげぎす』の前身である『ヒミズ』から古谷作品における自意識を考えてみようと思います。

 『ヒミズ』の主人公住田は中学生の男子。めったに帰らない父親は無職のろくでなしで、家は川沿いの掘っ立て小屋。つまり彼はどちらかというと恵まれない方の家庭環境にあるわけです。
 しかし、自意識の強い住田に言わせれば、「こんなのありきたりの不幸話」としています。「自分は特別(不幸)」と思うような奢った考えを嫌悪しているからです。これが古谷作品の主人公たちの自意識そのものなんですが、「本当の自分」とか言っちゃうやつを嫌悪しつつも、実は自分の中にも「実は俺って特別なんじゃね??」という期待があることを知っており、そのためヒミズにおいては過剰に「普通」であろうという姿勢を持ちます。
 そうした願望から、「自分は普通」と言い聞かせ、誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと暮らしたいという夢ともいえない夢を持っています。
 しかし、母親が住田を置いて男と逃げ、まったく一人になった住田は、唐突にやってきた父親を衝動的に殺害します。これは、住田が今まで自分の中で抑えつけていた「こんなはずじゃなかった」「俺はホントはもっと・・・」という自意識が噴出した瞬間であったように思えます。「こいつさえいなければ」と他人のせいにすることは、現状を認められない「本当の自分」とか言ってるやつと違いがないわけです。
 こうして嫌悪していた自分の中の自意識が噴出してしまってから、彼はその自意識をどう扱うか考え始めます。「もしかしたら自分は本物かもしれない」という自意識をとりあえず認め、一年間の猶予期間を設けます。もし自分が本物であれば、その一年の間に悪い奴をみつけることができ、自分の手で殺せるはず、というものです。「運命」に本物かどうかを託すということです。
 つまり、「悪いヤツ」というのは自分が遭遇しうる「真実」だったのだと思います。

 <この文章はかきかけです>

スチャダラの到達した「静かな絶望」に対する「諦念の境地」

 この曲を久しぶりに聞いたら、実はとてつもない諦めの境地を語っていることに気づいてしまった。
 
 スチャダラパー『彼方からの手紙』

 そもそも人種差別体験を元に「自分たち」を歌うことでアイデンティティを確立してきたヒップホップは、アメリカのヒスパニック系やアフリカ系に歌われてこそ意味のある音楽だった。 差別を乗り越えるには、誰がどう見てもかっこよく、新しく、驚かれなければならない。差別する側が思わず拍手をしてしまう状況を作り出すことが不可欠であった。 だから、彼らは頭でぐるぐる回転しなければならなかったし、レコードをスクラッチしなければならなかったし、独特の絵画表現が必要だった。その斬新さは差別という社会の問題を軽々飛び越え、国境を越え、世界中で享受されることになった。
 ヒップホップは、理不尽な差別という、目に見える「絶望」を出発点とする。それに対処するために「自分」を自分たちで定義しなおすという方法を取ってきた。それに対して、日本のヒップホップは状況が異なる。「不幸なことに、僕たちには『不幸なこと』がなかった」というのはみうらじゅんの言葉だけれども、ヒップホップをやりたくても、僕たちには目に見える「絶望」がなく、まさにそれこそがヒップホップができない絶望だった。
 もっと言えば、これは毎日を生きていく上で「目標」とすべき、「希望」も「絶望」もないことにもつながる。現在の日本の絶望は、いってみてば「静かな絶望」なのである。

 『彼方からの手紙』は、日本の「リアル」の不在を誠実に語ってきたスチャダラパーの、一種の結論ではないだろうか。

 『彼方からの手紙』の歌詞。“川って海につながってんでしょ”と思い、それを確かめようと思い立つ。けどめんどくさくなって、今度は“川のはじまりってさあ”と思い、やっぱり向かう途中でお腹が減って、もうどうでもよくなる。
 海という「未来」や、川の源という「アイデンティティ」を夢見ても、それはもう結局僕らとは関係がないのである。そんな目的がなくたって適当に生きていけるし、そもそも目標に向かうだけのモチベーションを保てない。「そっちじゃ考えられないだろうけどさ」と、この状況を嘆く。

 しかし『彼方からの手紙』はさらに言う。“案外、桃源郷ユートピア)ってここのことかなって思った”。
 全てを諦め、目的さえ持たなければ、そこには幸せも不幸もない。 元々のヒップホップは、ストリートという悪い場所から抜け出し、メイクマネーして富を掴む「ゴール」を設定している(彼らがスターになってもストリートを大切にするのは、結果的に「絶望」という生きるための「目標」に感謝しているからに他ならない)。そこには明確な幸せと不幸の線引きがある。しかし、既に様々なものを与えられている私たちは、実は「夢や希望」などの目標を持たなくても生きていける。むしろそうしたぬるま湯の環境にいたからこそ、夢や希望を持つことが、幸せと同時に不幸を作る、ということに気が付くことが出来る。

 スチャダラパーからのヒップホップに対する答えである。 全てを諦めれば、幸/不幸は後付けの価値観に過ぎない。“澄んだ空気”“青い空”のすばらしさに注目しながら、この日常を生きる。“早くこっちにおいでよ”と『彼方』から声がする。


瀬田なつき監督作品『彼方からの手紙』所収

「真実」の絶対性を信じ、やがて「真実」の必要性に陥るシガテラ


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訳あって発表ができなかったので、その際の原稿をアップします。
元ネタとして、宮台真司さんのblogをご参照ください→http://www.miyadai.com/index.php?itemid=357
「あるはずのないもの」を「あるかのように振舞う」のは、「ここではないどこか」の真偽よりも、とりあえず向かう、という志向性を重視していることです。
できましたら、批判等お願いします
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 レジュメに「あるはずのないもの」を「あるかのようにふるまう」ことで成立する今日の社会、とありますが、これは一体なんなのかという説明からしたいと思います。
 今日の私たちの社会は、個人が共通の理想を抱き、志向することを前提に成り立っている、とされています。犯罪のない社会だとか、医療の発達だとか、自然の統制化だとか、私たちが「よりよく」、幸せに生きていくために、みんなが思い浮かべるような「幸せの形」として「理想」を設定してきたわけです。現実としての社会は、その理想に向かって邁進することで充実感を得る、という風に考えてきました。
「理想」というものを絶対視して、真実だとしていました。だから、その「理想」に照らし合わせて、絶対正しいことや絶対間違っていることというのは存在できたわけです。
 ところが、どうもこの手法では、社会は大変な機能不全を起こすようだ、と気づいた瞬間から、「理想」を志向するモチベーションは失われていきます。機能不全というのは、まあ環境破壊でもいいですし、安全神話の崩壊とかでもいいんですけど、とにかく、毎日努力してればきっと報われるんだ、とか、こうしてれば絶対安全なんだ、みたいな気持ちをそいでしまう、論理の外にある力が見え隠れしてきます。余談ですが、最近の血液型性格判断とか、スピリチュアルブームの興隆ってのもこの流れだと思います。まあとにかく、こうした中では、理想は、あくまでも現実とは無関係に存在している理想でしかなくて、個人的な欲求を最上位において行動するやつも出てくるわけです。道徳観の欠如とか、日常の不全感といったことも最近叫ばれたりします。
 異論は多々あるかも知れませんが、とりあえずここではこういう風に了解していただきたいです。今日の私たちは、根本的に社会構造そのものを見直さなければならない、というところにきているわけですが、まだどうすればよいかの決定はなく、今までの手法が継続しているってことです。それが、レジュメの「あるはずのないもの」を「あるかのようにふるまう」ことで成立する今日の社会ってことになります。

 古谷実作品の主人公たちは、こうした不自然さにとても敏感で、神経質なくらい真面目です。まあこれは「真実」がどこかに必ずあるはずだ、という「理想」を信じているからこその態度ではあるんですが、とにかく、こうした偽物っぽいものを信じてる人たちが許せないんですね。
 ここで、図版の方を見ていただきたいんですが、これは前回の発表の題材だった稲中からです。
 このパンツ一丁の男の子は井沢くんといって、主人公コンビの片割れなんですが、ドミノ倒しイベントで感動するっていう、偽者を信じる人たちが嫌で、邪魔しに行くんですね。そして捕まった、という場面です。

男(ブサイク) 「どうしてこんな事をするんだい みんな一生懸命やっているのに」
井沢(ブサイク)「・・・・お前ら成功したら泣くだろ」
        「泣くぐらい大変でやらなくていい事なら やるな!」
女達(ブサイク)「ちっ違うわよ こんな大変なことをみんなでやるから感動するの!」
        「すてきな思い出ができるじゃなーい」「そーよそーよー」
井沢(泣き怒り)「じゃあドミノなんてするな!ゴミをひろえゴミを!!」
みんな     「なんでみんなでゴミひろわなきゃなんないのよ!」
        「もういいよ バカはほっとこ 」
井沢      「お前らそんなムリに感動しちゃいかんぞー」
        「オナニーしてるみたいで気持ち悪いぞー」
行け!稲中卓球部 13巻

 面白いのは、突っ込む側の方が、弱いというところです。ここだけ見ると、井沢の論理の方が正しいように思えます。ですが、やっぱり無理やりこうして「みんなでがんばること」「正しいこと」というのを捏造すると、こういうモロイ形がバレバレです。井沢は、社会から疎外され、孤独になってしまいます。
 たとえ理想が「あるはずのないもの」であっても、私たちはいまだにそれを信じて社会を形成する以外の方法を知りません。だから、井沢くんがそれは「偽物だ」と糾弾しても、それが偽者だろうとなかろうと、糾弾した人が社会から疎外され、孤独感を味わう他ないわけです。

 こうした孤独感を埋めるための方法として、ひとつは前回の発表でテーマにした「自意識」というのがあります。「みんながバカで、実は俺はすごいんだ」と思い込んで、自分自身を肯定するってやつです。
 もうひとつは、あくまでも絶対と思える真実を見つけ、社会に参入するという方法です。シガテラにおいては、幸か不幸かこの「真実」と思えるものに荻野くんはめぐり合います。
 前回は稲中から、前野と、ブスだけどすごい性格がいい女の子キクちゃんを「自意識」の側面から話しましたが、今回は、シガテラという作品から、荻野くんという主人公の高校生と、美人で性格もいい南雲さんが、恋人関係にある、ということから見ていきたいと思います。

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不安を内包することができる社会を。

・西欧近代と「江戸近代」

 僕(←呉智英さんの著作に賛同することが多い)は、封建社会を成功させていた江戸社会は、西欧近代と対照的に、「江戸近代」と呼んだっていいんじゃないかと思っている。産業革命が始まるころのロンドンと人口多い都市だったってのは、単純に見て社会としての成功と読んでもいい。
 論語では、「己の欲せざる所、人に為すなかれ」という「消極的な他者への施し」を主張する。キリスト教は、ある意味ではおせっかいでもあるくらい、「積極的な他者への施し」を基調とする。前者は「慈悲」であり、後者は「愛」である。
 江戸近代は差別を基調とし、被差別者も、それを仕方のないことと受容していた。なぜ受容できるのかというと、差別を受けるものは、ある場面では特殊能力の持ち主だとされ、奇異な目で見られることを「畏怖」と置き換えていた。そういう形で、最下層として生きる人には、社会の側から見れば下なんだけど、実は「自然」(≒軽量不可能な世界)にもっとも近い人、という感覚があった。自然は不条理で理不尽な世界で、人間の都合を考えて動かない。だからこそ、社会の不安要素でもありうる。
 これに対し西欧近代は、全ての人は神の下に平等である。そのため、どんな人間をも神は見捨てない。イエスは、伝染病の患者(社会の外に疎外された人)に触れ、その病を癒し、苦しみを解き放した。それは、今まで「仕方がない」と諦めていた人に、新しく希望を(「命」を)与えなおすことになる。それは、社会の拡大を意味する。
 社会の中にある「不安」は、自然のことを指す。西欧近代化とは、不安を社会から遠ざけることだといえる。
 近代化における社会のまとまり方は、人々に共通の理想を植え付け、それの実現に精進することで、人々は満足を得られるという仕組みを持っている(←「大きな物語」と呼ばれるもののこと)。コンサートホールや美術館の出現もこの頃。それらは非日常として、日常が退屈なルーティンワークであればあるほど輝きを増し、その退屈な日常こそが非日常の世界を実現させる礎になる、という認識が、更に日常へ帰る際の原動力となる。
 しかし、「大きな物語」が崩壊、もしくは「共通の理想」がある意味で実現されると、社会のまとまり自体が弱体化することになる。

・不安の内包

 こうなると、飽食の時代に「不安」が蔓延する。不安から逃れることを目指した西欧近代に慣れ親しんだ私たちは、不安に対し、見て見ぬフリをするか、不感症になるか、怯えて部屋に篭るかを迫られる。それと、もう一つの手として、不安を内包するというのがある。
 古谷実作品『グリーンヒル』のリーダーはそこにたどり着く。ブサイク・ハゲ・デブ・いじけてる、というリーダーはその自らの不遇(彼に関しては、資産家の長男だ、ということも「普通」から遠ざかる悲しい事実になってしまう)に対し、「もーしょーがない」という境地にたどり着く。
 『シガテラ』も別の角度から「不安の内包」を決意する。主人公の高校生、荻野くんは少しだけ不幸かもしれないけど、まあまあな境遇(一人の同級生からいじめられ、バイクに乗ることに喜びを見出す毎日)にある。しかし、突然そこに、美人で頭も性格も良く、しかも荻野くんのことが好きでたまらない彼女、という「とんでもない幸福」が訪れる。それに浮かれているのもつかの間、彼は「彼女との幸福がいつ壊れるか」という不安と隣合わせで生きることになる。作品では、「主人公たちのすぐ隣にある不幸」を客観的に読者の視点から見ることで、不安が見事に可視化されている。
 荻野はついに、不安に耐えかねて、彼女に別れを切り出し、その後「不幸になる直前までがんばる!!」という結論に到る。いつか不幸がやってくるかも、という不安はあるが、今はとりあえずそうではない。だから不幸になるその直前まで、彼女を幸せにすることを決意する。不安を内包することに成功する。
 これが江戸時代のような自然観(≒仏教観?)であることに相違はないだろうが、キリスト教的なものでもある。西欧近代の形にゆがめられる前のキリスト教である。
 
かきかけです